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『マチネの終わりに』第八章(48)

「中東や北アフリカで難民の現地調査をすることもあるのか?」

「基本的にはない。調査員から報告を受けて、情報を精査して国際機関や各国の政府に提言する役割だから。ただ、小さな部局だから、場合によっては自分で行くことにもなるでしょうね。――ジャーナリストの頃と違って、色んなことを取材して、それを広く社会に訴えるというより、今は難民問題にテーマを絞って、対策の方に関わっていきたいの。報道は勿論、大事だけど、限界も感じていたから。ジャリーラの存在が、やっぱり大きかった。」

 ソリッチは、赤ワインを飲みながら、話を聴いていたが、

「お前は優しい。それは、私にもお前の母親にもなかった独特の性質だ。境遇がそうさせたのか。」

 と言った。洋子は、苦笑した。

「わたし、まったく反対の理由で離婚を切り出されたのよ。君は冷たいって。――親っていうのは、ありがたいものね。いつも贔屓目に子供を見てくれる。」

「その優しさのために、お前が引き受けることになる人生の苦難を、私は心配している。」

「大丈夫よ、それは。」

 ソリッチは、表情をやや険しくしてグラスを置くと、改めて娘の顔を見つめ直した。海辺と言っても、車の往来の盛んな通りを一本挟んだ席で、近いテーブルの客らの会話は、その僅かな隔たりを越える間に、適度に掻き消されていた。

「事実は、事実としてある。情報の真相を確かめるというのは、今の世界では最も価値のある仕事だろう。報道の虚偽や偏向は、国の運命も、人間の運命も破壊的に変えてしまう。お前も以前、批判記事を書いていたが、ユーゴスラヴィアの〈民族浄化〉は、政治だけじゃなく、マスコミにも大きな責任がある。――だからこそ、真相を決して知られたくないという人間たちもいる。彼らは、手段を選ばない。お前のことは誇りに思っているが、それでも、私は心配だ。」

「ありがとう。でも、……大丈夫よ。難民局は、さっき空爆されたばかりの場所に行って、被害状況を調べて告発するようなフロントラインの部局とは、またちょっと違うから。――お父さんが思っているほど破滅的でもなくて、わたしも、自分の身の安全は考えて人生の選択をしてるの。保守的すぎるくらいに。今はケンもいるし、無理は出来ない。」

第八章・真相/48=平野啓一郎 石井正信・画

#マチネの終わりに

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平野 啓一郎

小説家です。著書は小説『ある男』『マチネの終わりに』『空白を満たしなさい』『透明な迷宮』、エッセイ『私とは何か「個人」から「分人」へ』など。

『マチネの終わりに』後編

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コメント2件

お父さんも真実を見据える眼差をお持ちの方。真実は知られたくない人たちはいます。いつの時代も国家は嘘をつく、そして国家にとって真実は敵です。洋子さんの優しさはその聡明さと共に大きな魅力です。
洋子さんと同じく、ソリッチ監督も優しい人なのでしょう。個人に対する優しさというわけではなく、民族や人という生き物に対して誠実な愛情をもっているというか…そうでなければ人を感動させる映画は撮れない気がします。
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