見出し画像

『マチネの終わりに』第七章(27)

 ヘレンと出会ったパーティーは、ケンが丁度、一歳の誕生日を迎えたあとだった。

 その頃から、年が明けて、リチャードに彼女との不倫を打ち明けられるまでの期間を、洋子は、人生でこれまでに経験したことがないほど索漠とした心境で過ごした。

 Jay―Z&アリシア・キーズの《エンパイア・ステイト・オヴ・マインド》が流行っていて、どこに行っても、「出来ないことなんて何もない、あなたは今、ニューヨークにいるのよ!」というサビのフレーズを耳にしたが、後にはそのメロディを聴くだけで、当時のやるせない孤独を思い出させられた。

 どんな土地でも、それなりに溶け込んで暮らすことは得意な方だったが、この時は、イラクにいた時とはまた違った意味で、自分がよそ者であることを身に染みて感じさせられた。そのメロディの微かなペーソスは理解しつつ、合唱する気にはなれない自分の状況が歯がゆかった。

 仕事に関しては、語学学校と近所のギャラリーの手伝いとに加えて、RFP通信時代の知人に頼まれて、読書人向けの本に関するサイトに、ノーベル文学賞を受賞したヘルタ・ミュラーについての記事を書いたところ、思いがけず、その後、複数の原稿依頼があった。洋子は、久しぶりに文学に浸る時間を持てて嬉しかったが、体調も良く、そろそろもっと、やり甲斐のある仕事をしたい気持ちになっていた。

 情熱を持って打ち込める何かが必要だった。リチャードの外出の理由に不自然なところがあるのには気づき始めていたが、見ないようにしてしまったのは、自分の弱さである気がした。

 そして、この時期の彼女の関心は、専らケンにだけ注がれていた。

 日々成長してゆくので、思い返すと、意外なほど、その記憶は曖昧だったが、その分、かなりの数の写真や動画を撮影していた。彼女自身は、世代的に、幼少期の写真が極端に少なく、それに比べれば、ケンの生の記憶に残らない最初の数年は、あらゆるメディアによる記録で埋め尽くされていた。

 洋子は特に、風呂上がりに、ケンがタオルを片手に、ダビデ像そっくりのポーズで立っている写真を気に入っていて、両親に送り、友人にも何度か見せた。


第七章・彼方と傷/27=平野啓一郎

#マチネの終わりに


▲Jay―Z&アリシア・キーズの《エンパイア・ステイト・オヴ・マインド》

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?