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ある男|22−5|平野啓一郎

伐採して、トラックが出入りできるように開かれたスペースの奥で、オレンジ色の首の長いクレーンのような機械が、材木を一本一本咥えて持ち上げては、その枝を落としている。三人ほどの人影が見えた。更に奥を見渡すと、伐採された平地が続いていたが、少し行くとその先には何もなかった。急な斜面になっているらしい。

「大体、樹齢はどれくらいなんですか?」

「まあ、五十年くらいで伐ってしまいますね。それから、建材になって家屋になってからまた五十年。だから、私は一本の木を百年くらいで考えてますよ。山で五十年、人間と一緒にあと五十年。従業員にもそう言ってます。」

「なるほど。……そっか。……」

「あ、こっちです。気をつけてください、そこ。──今日は、こんな天気なんで、伐採はせずに、ああいう作業ばかりです。林業も、今は全部機械化されて、暑さ寒さはありますけど、体力的には大分楽になりました。伐採はやっぱり大変ですけどね。」

「谷口さんも機械の操縦を?」

「してましたよ。大体、三年くらいで一人前になる業界なんですよ。『緑の雇用』っていう国からの育成の助成金も出るんですが、谷口君は一年半ぐらいで仕事を全部覚えてしまいましたからね。真面目だったし、判断力も良かったし。細身だったけど、意外と体力もあって。」

「──何か、運動とかされてたんですか?」

「いや、スポーツは興味なかったんじゃないかなあ。子供の頃は、剣道をしてたらしくて、私も実は有段者ですから、いつか勝負しようなんて話してましたけど、笑ってただけでしたね。」

懐かしそうに語る伊東に、城戸は微笑して頷いた。剣道は、実際には、谷口大祐の幼時の習いごとのはずだった。そんなことまで、改変せずに自らの過去としていたのか、と城戸は私かに驚いた。

「よく絵を描いてましたよ、彼は。昼休みとかに。あんまり上手じゃなかったけどね。」

伊東は笑った。

「奥様から見せてもらいました。」

「ああ、そうですか。谷口君らしい、素直な絵ですよ。ああいうのは、生まれながらの性格が出るんですなあ。」

「──ええ。……」

「あ、ちょっと失礼。……はい、もしもし? ああ、どうも、先日は! はい、……」

伊東が電話で話しながらその場を離れたので、城戸は、しばらく独りで、その雨に濡れそぼつ杉の木立を眺めていた。

静かだった。玉のような大粒の雨が傘を打ち、また、地面を打つ音の狭間で、城戸の呼吸音が澄んだ。

白く霞がかった緑が、雲を透いて注ぐ光に淡く滲んでいる。山々は、折り重なるようにぼんやりと連なっている。

今日は恐らく、ずっとこのままの天気だろう。

原誠は、ここで日々、何を思いながらチェーンソーを握っていたのだろうかと、城戸は想像に耽った。

一本の杉が成長する五十年という時間のことを考えた。そこから先の別の五十年というさっき伊東がしていたような話を、原誠も意識しただろうか? その木を植えたのは、数代前の人間であり、彼が植えた木を伐るのは、また数代後の誰かだった。

そうした時間のただ中で、彼は出生後、ここに至るまでの時間をどんな風に回想しただろうか? いや、彼の心を占めていたのはただ、早く仕事を終わらせて、里枝と二人の子供に会いたいということだけだったのではないか。恐らくは彼も、一日酷使した体を布団に横たえ、傍らの二人の子供を寝かしつけながら、自分は今、幸福だと心底感じたのではなかったか。そこに至るまでの不遇が尋常でなかっただけに、それは強烈な実感だっただろう。……

城戸は、自分自身を完全に見失ってしまうような恍惚を覚えた。瞼を閉じると、そのままひっそりと時間が止まって、雨の中で頭を垂れる彼をいつまでも何も言わずに待っていた。

どれくらい、そうしていただろう?

再び目を開けた時、彼は、遠くで雨に濡れながら現場を歩いている一人の作業員を、一瞬、原誠と見間違った。

本当にここに彼がいたなら、何と声をかけるだろうかと城戸は考えた。二度自殺を試みた末に、彼は、生きるために生き直した。そのことに理解を示してやりたかった。

「──ずっと探してたんですよ、心配して。……」

つと立ち止まった彼が、こちらを向いて、微笑する姿が目に浮かんだ。ただその背中だけを追いかけ、横顔だけを見ていた彼と、初めて正面から向き合った気がした。

これまで、なぜかふしぎと考えなかったことだが、城戸は、会ってみたかった男だったなと思った。

* * *

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