ある男|22−2|平野啓一郎

南向きの窓から差し込む太陽の光が、通路を経て、城戸の顔を眩しく射た。それを、機内サーヴィスのCAが遮った。城戸は、コーヒーを注文した。そして、プラスチックのフタを外して、香りを嗅ぎつつ、少し啜ると、また窓の外の青空と、細動し続けている翼を眺めながら考えた。

『変身物語』には、タイトルの通り、ありとあらゆる変身譚が収められているが、なぜ変身するのか、という颯太の子供らしい素朴な疑問に、城戸は結局、答えを見出せなかった。

彼は、太陽神たる父親の金色燦然たる馬車を乗りこなせず、世界中を焼き尽くさんばかりに暴走し、最後はユピテルの雷に射貫かれて死んだかわいそうなパエトンを思い出した。彼の姉妹である「太陽の娘たち」は、弟の死を悲嘆し、慟哭し続け、遂には美しい涙の琥珀を残して樹木へと姿を変える。

英雄アクタイオンは、たまたま、森の女神ディアナの水浴を見てしまったというだけで、その激しい怒りを買い、牡鹿に姿を変えられて、主とも気づかぬ飼い犬たちに噛み殺されてしまう。

クピードの矢に射られたアポロンは、愛されることを知らないダプネを追い回し、彼女は自らの美しさを恨んで、月桂樹へと変身する。……

取り留めもなく、思い出すがままに、それらの神話を脳裏に過ぎらせながら、城戸は、原誠だけでなく、小見浦の仲介で戸籍を交換していた一群の人々のことを考えた。彼らもまた、悲しみが極まって、或いは追い詰められて、或いは無理矢理に、違う自分へと変身せざるを得なかったのではあるまいか。そして、ある者は、そのために愛され、幸福を手に入れ、またある者は、更なる淪落を経験している。──

宮崎が近づき、高度が下がってくると、東京を発って以来の快晴が嘘のように雲が増え、雨の水滴が窓を打っては、幾条もの細い軌跡を走らせた。

着陸すると、曇天の小雨だったが、気温は低くなかった。

以前と同様に、空港でレンタカーを借りて宮崎市内のホテルにチェックインし、昼食を摂った。

里枝との約束は、実は翌日だった。報告書自体は、メールに添付すれば済むことだったが、彼は、直接会って彼女に説明したかっただけでなく、どうしてももう一度、この地を訪れたかった。それで、自分にけじめをつけるつもりだった。

彼がこの日の午後、面会の約束をしていたのは、かつて原誠が勤務していた伊東林産の社長だった。

城戸はただ、原誠がどういう場所で働いていたのかを見てみたかったのだが、社長の伊東は、里枝に紹介を頼むと、最初、何ごとかと身構えていた様子だった。尤もらしい理屈をでっち上げても却っていかがわしいので、城戸は率直に、「林業に興味がある」と伝えた。伊東は、それでほっとしたらしく、山を案内してくれることになった。

作業現場は、4WDでなければとても行けないというので、清武町にある宮崎市役所の支所で待ち合わせをして、伊東の車に同乗させてもらうことになった。

駐車場で借りている車を降りると、黒い傘を差した、恰幅のいい、五分刈りに薄いサングラスの男が、「城戸先生ですか?」と声をかけた。名刺を渡して挨拶をし、東京から持ってきた菓子折を渡すと、「ああ、これはご丁寧に。」と甚く恐縮された。腹の底から出ているような、よく響く声だった。

山はそこから四十分ほどの場所らしく、原誠が亡くなった現場ではないが、そう遠くはない、似たような場所だという。

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平野 啓一郎

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