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『マチネの終わりに』第六章(72)

 長崎に彼女に会いに行くことも一度ならず考えた。実家の場所まではわからなかったが、宿泊予定のリゾートホテルで待っていれば、会うことも可能かもしれない。そこからメールでもう一度連絡を取れば。――しかし蒔野は、そこまでのことはしたくないというより、洋子に対して、そこまでのことを自分にさせてほしくないという、複雑な思いを抱いていた。妙な考えだったが、自分が惨めになるだけでなく、彼女の人品をも幾分貶めてしまうような苦痛を感じた。

 それでも彼は、散々思い迷った挙げ句、洋子が東京に戻ってくる日には、羽田空港まで、彼女に会いに行くことにした。

 別れ話になることは覚悟していたが、せめてもう一度、話がしたかった。そうせぬまま別れられる相手では決してなかった。穏やかに話をすることが出来るのなら、自分は、これまでとは違ったかたちでの関係の継続を、彼女に求めるかもしれない。未練がましくはあったが、せめて終わりというのではなく、当面の関係の休止ということにでもしたかった。いつかまた、それぞれの人生をもう後戻りさせる心配もないほど進めてしまったあとで、安心して再会する時までの束の間の関係の休止。……

 

 空港の到着ロビーで、固唾を呑んで、洋子が出てくるのを待っていた蒔野は、最後の瞬間まで、そんなことを考え続けていた。手荷物引取り所の人の群をガラス越しに探し続けたが、ベルトコンベアが停止し、最後の一人がスーツケースを引っ張って出て来るまで、とうとう洋子の姿を見つけることは出来なかった。

 事前に羽田まで会いに行くことはメールで伝えていた。そして、自分はこの再会の機会さえ避けられたのだと感じた。洋子の身に何かあったのではという懸念は、依然としてあった。しかし、そこに希望を見出そうとする自分に耐えられなくなっていた。

 蒔野は、もう自分からは一切連絡を取らぬことにして、あとはただ、彼女からの連絡を待つことにした。何の音沙汰もなければ、自分でその感情の始末をつけるより他はなかった。


第六章・消失点/72=平野啓一郎 

#マチネの終わりに

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