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ある男|19−4|平野啓一郎

その後は、しばらく二人とも黙っていた。

美涼は、「城戸さん、何かすることあったらしてくださいね。」と気を遣い、城戸も同じことを言った。

「寝ても良いですよ。起こしますから。」

「一つ、訊いてもいいですか?」

「どうぞ。」

「原誠っていう人、どうしてダイスケになりすましてたんですか? 自分の戸籍が嫌だったのはわかりますけど、どういう生い立ちだったかとかは、別に自分で好きなように考えれば良かったんじゃないですか? わざわざ生体肝移植の話とか、自分の話にして生きていかなくても良かったんじゃない?って思うんですけど。」

「もちろん、適当な作り話で過去を隠してる人もいると思いますけど、……共感したんじゃないですか、大祐さんに。小説読んだり、映画見たりって、そうでしょう? 自分で好きな話を考えて、それに自分の気持ちを込められるっていうのは、一種の才能ですよ。なかなか、みんなが出来ることじゃない。それにやっぱり、他人を通して自分と向き合うってことが大事なんじゃないですかね。他者の傷の物語に、これこそ自分だ!って感動することでしか慰められない孤独がありますよ。……」

城戸は明らかに、自分の原誠への興味に重ねながら話していた。

「うーん。その説明はわかる気がしますけど、……なんか、わたしの知ってる昔のダイスケがいて、そのあと、宮崎で素敵な家庭を築いて、林業の現場で事故死しちゃった『谷口大祐』さんがいて、あと、これから会う本物のダイスケの人生があってって、……ふしぎですよ。」

「未来のヴァリエーションって、きっと、無限にあるんでしょう。でも、当の本人はなかなかそれに気づけないのかもしれない。僕の人生だって、ここから誰かにバトンタッチしたら、僕よりうまく、この先を生きていくのかもしれないし。」

「なんか、企業の社長の交代みたいですね。サッカーチームの監督の交代とか。」

「法人は、ローマ帝国の時代からそういう考え方ですよ。人民が変わっても国家は同一だって。今の民法の基礎になってるローマ法も、ローマ帝国が永遠に続く前提でしたけど、実際は、ローマ帝国は滅びて、法律の寿命の方が長かったんですが。……」

城戸は、ついそんな話を始めてしまったが、面白そうに聴いている美涼をちらと見て、

「いや、まあ、だから、個人となるとまた違いますよね。まず死があるし、寿命がある。それに、原誠さんはやっぱり谷口大祐さんではないわけで。……」

「でも、原誠さんのままでもないでしょう?」

「そうですね、……大祐さんの人生と混ざっていくのか、同居してるのか。──そうなると、僕たちは誰かを好きになる時、その人の何を愛してるんですかね? ……出会ってからの現在の相手に好感を抱いて、そのあと、過去まで含めてその人を愛するようになる。で、その過去が赤の他人のものだとわかったとして、二人の間の愛は?」

美涼は、それはそんなに難しくないという顔で、

「わかったってところから、また愛し直すんじゃないですか? 一回、愛したら終わりじゃなくて、長い時間の間に、何度も愛し直すでしょう? 色んなことが起きるから。」と言った。

城戸は、彼女の顔を見つめた。その表情に点る芯の強い繊細な落ち着きが、無性に愛しかった。通念に染まらぬ一種の頑なさと、それが故の自由な、幾らか諦観の苦みのある彼女のものの考え方に、自分はこの一年ほどの間、ずっと影響を受けてきたのだということを改めて意識した。

* * *

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