『マチネの終わりに』第八章(44)
早苗は、洋子に会ったことを言おうとした。しかし、それを後回しにするかのように、口を衝いて出たのは、武知の死を知って以来、独りで考えてきたことだった。
蒔野は、それに理解を示しつつも、どこか釈然としないものも感じた。
「来月出産っていうこの時期になれば、俺がもう、君と別れることはないと思ったんじゃないのか?」
早苗は、目を瞠って咄嗟に首を振ったが、言葉は発せられなかった。
蒔野は、長い時間、俯き加減で黙っていたあとで、早苗を見つめて言った。
「どうして隠し通してくれなかった?」
「……。」
「せめて言わずに耐え続けてくれれば、良かったんじゃないのか?」
早苗は、蒔野のその言葉に、一縷の望みを繋いで、「ごめんなさい。」と謝った。洋子との再会は、それでそのまま告げることなく終わった。
蒔野は、哀訴するような早苗の表情に、既に微かに、解放された安堵が兆しつつあるのを看て取った。
彼は、テーブルの上の二つのコーヒーカップを見つめ、部屋の隅に置かれたベビーベッドと、その中に溢れている赤ちゃん用の衣服やおもちゃの類に目を遣った。
早苗の嘘がなければ、この生活は、きっと存在していなかっただろう。そして、彼は自問した。では、これは悪い現実なのだろうか、と。無くても良かった二年半で、その延長上には、あるべきではない未来が待っているのだろうか。
祖父江は、「早苗さんを大切にしてください。あなたの人生にとって、掛け替えのない存在です。」と忠告した。あれは、こうした告白の予兆のようなものを、自分の介護を嫌な顔一つせずに手伝う早苗の姿に、既に見ていたからなのだろうか。……
ほど経て、蒔野は口を開いた。
「話はわかったから。……とにかく、今は安静にして、子供のことを一番に考えて。」
早苗は頷いて、その日は一日、寝室に籠もって泣いていた。
十月十四日、蒔野聡史と早苗の夫婦には、二八〇〇グラムの女の子が生まれた。早苗はそれから二週間、考え続けて、娘には「優希」と名づけた。
第八章・真相/44=平野啓一郎
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