『マチネの終わりに』第六章(19)

 夢の中に閉じ込められたままの彼女は、そこで、ムルジャーナ・ホテルのエレヴェーターのドアを開けようと、必死でボタンを押し続けていた。
 ドアは開かなかった。パニックに陥ったような洋子を、周囲の乗客は異様な目で見ていた。ようやく電車がホームに入ると、完全に停止する前にドアが開いて、駆け出すように降り、ベンチに座って気分が落ち着くまで待った。顔を覆う手の震えが止まらなかった。ドアが閉まって出発する電車を、彼女は見ることが出来なかった。
 きっかけが、一人のアラブ系男性だったことにも、洋子は動揺していた。彼女はまさに、新しい移民法についての記事の中で、アラブ系移民を見ればテロリストと思う類のイスラム恐怖症を批判的に取り上げたところだった。
 彼女は、正義感云々以前に、そもそもそうした差別意識に強い嫌悪を抱いていた。それは、人種的にも文化的にも、「純粋さ」という概念とは無縁の彼女自身の生い立ちのせいであり、また、自分はイラクに行って、実際にテロリズムを経験し、そこに暮らす被害者としてのイスラム教徒たちとも触れ合ってきたのだという自負があったからだった。
 その自分が、誰もがただ、暑さのことしか気にしていないような地下鉄の車内で、唐突に、目の前の一人の青年を自爆テロ犯と結びつけ、恐慌を来してしまうとは。……
 洋子は、自分が、バランスを崩しつつあることを自覚した。支えきれないほど大きなトレイを持たされて、そこに乗せられた幾つもの玉を安定させようと腐心しているかのようだった。一つを気に掛ければ他方が走り出し、落とさぬように慌てた動作のために、今度は一斉に反対に玉が転がり出してしまう。……そんなことの繰り返しだった。
 しばらく足が遠のいていた、バグダッド時代からのかかりつけの医師に相談すると、
「PTSDですね。重度ではないです。」
 との診断だった。
 ジャリーラとの新しい生活についても話したが、一般的にも、外傷的出来事から数カ月から半年遅れでPTSDが発症することは珍しくないと説明した上で、こう付言した。

第六章・消失点/19=平野啓一郎 石井正信・画

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平野 啓一郎

『マチネの終わりに』後編

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