『マチネの終わりに』第七章(21)

【あらすじ】蒔野と洋子が偽メールの事実を知らぬまま決別して二年が過ぎた。蒔野はマネージャーの三谷と結婚したが、ギターに触れない日々を送る。洋子はリチャードとよりを戻して結婚、記者を辞めて米ニューヨークに住む。ケンを出産したが、リチャードは浮気している。

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 友人から、妻とのいかにも濃やかな愛情の交歓について自慢されると、自分が洋子から得ているものの乏しさに気が滅入った。しかし、その同じ友人が、浮気など考えたこともないと当たり前のように断言するのを聞くと、自分はその分、彼の知らない人生の逸楽を味わっているのだと、甘やかな苦痛を伴う慰撫を味わった。

 彼は今でも洋子を愛していたが、妻の前に出ると、なんとなく自尊心を傷つけられて、陽気さを装ってみても後が続かず、独りになった自室で腹立たしげにウロウロしたりした。家庭生活の喜びを実感できるのは、ケンと一緒の時だけだったが、こうなった理由は、ケンの生まれるのが少々早すぎたからかもしれないと思うこともあった。

 リチャードは、結婚以来、ずっとそんな調子だったわけではなかった。彼は段々と自信を失っていったのだったが、その根を辿ってゆくならば、結局のところ、婚約期間中の洋子の“浮気”に逢着せざるを得なかった。

 洋子には確かに、負い目があった。結婚を目前にして突如出現した蒔野というライヴァルとの競争に、リチャードは、持てる情熱のすべてを注いだので、その勝利に酔い痴れた暁には、さすがにしばらく幸福な虚脱感に浸ることとなった。そして、幸福の熱が引いた後も、虚脱感だけはいつまでも続き、相対的には強くなったように感じられた。

 元々旧知の間柄で、年齢も年齢だけに、共同生活には、最初から蕩けるような甘美さが欠けていた。洋子の体調もしばらくは優れず、リチャードは、PTSDに苦しむ妻のために、戸惑いながらも、夫の義務として、辛抱強くその傍らに寄り添い続けた。

 洋子は、彼に感謝していたし、彼への愛に疑問を抱くことなど出来なかった。

第七章・彼方と傷/21=平野啓一郎 石井正信・画

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平野 啓一郎

『マチネの終わりに』後編

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