見出し画像

『マチネの終わりに』第六章(14)

 帰国後は、蒔野もそのことを気にしていて、スカイプでの会話中に、一度仄めかされたことがあったが、洋子は微笑して、
「ちょっと味気なさ過ぎない? せめて面と向かって、触れられるくらい近くで言ってほしい。来月、日本に行くんだから。スカイプでプロポーズされても、画面に飛びつくわけにはいかないでしょう?」
 と首を振った。蒔野も、
「まァ、……そうだね。じゃあ、その時まで言葉は胸にしまっておくよ。ただ、そのつもりだってことは、知っておいてほしかったから。」
 と従い、それ以来、同じ話は蒸し返さなかった。
 しかし、洋子は自分でそう言ってしまったことを、後悔していた。
 結婚するということは承知し合っているはずだったが、七月の東京での再会予定が、八月後半に延期になると、言葉ではっきりと約束を交わしていないという事実に、彼女は少し心細さを感じるようになった。
 元々洋子は、今年のヴァカンスの休暇を、リチャードとクレアの家族たちと過ごす予定で、八月末に取っていた。行き先はカリブ海のカンクンで、リチャードは、その前に入籍を済ませて、この旅行をハネムーンにしたいと考えていた。披露宴は、洋子がニューヨークに引っ越してからで構わない。しかし、気分が出ないというなら、大学の冬休みを利用して、改めて二度目のハネムーンに出かければいい、と。
 洋子は会社に、その八月末の休暇を七月に変更したいと申請したが、ただでさえ、人手の少ない時期だけに難色を示された。辛うじてここならとギリギリになって七月後半の四日間を提示されたが、既にフライトに空席はなく、蒔野の都合も悪かった。
 蒔野は、八月で構わないと理解を示した。洋子自身も、仕方がないと思っていた。しかし、このほんの一月の些細な延期が、彼女に遠近法的な錯覚とでも言うべき不安を抱かせた。
 まっすぐに伸びた鉄道の線路は、彼方の消失点で結び合っているように見える。しかし、一駅経ても二駅経ても風景は同じであり、その平行する二本のレールは、当然のことながら決して交錯しない。現在から見て、いつか必ず一つになるように見えるその点は、いわば幻に過ぎなかった。


第六章・消失点/14=平野啓一郎 

#マチネの終わりに

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?