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『マチネの終わりに』第七章(31)

 洋子は、リチャードの言い分に納得しなかったが、彼が最後に言った言葉には、胸をえぐられたような痛みがあった。

「誰と結婚しても」と強調した時、彼が蒔野のことを当てつけているのは明らかだった。そして、その効果は、彼が咄嗟に期待したよりも遥かに大きかった。

 洋子の脳裏には、蒔野から別れを切り出された、あのメールの内容が蘇った。

「あなたには、何も悪いところはありません。」と彼は書いていた。それは、ヘレンが彼女の「美しさ」を笑い、リチャードが「君は自立している」と皮肉を込めて言うのと、複雑に呼応し合っていた。そして、「ただ、あなたとの関係が始まってから、僕は自分の音楽を見失ってしまっています。」と、蒔野は続けたのだった。

 彼もまた、苦境にあって、自分をその傍らで見守り続ける存在としては、信用しきれなかったのだった。リチャードの仕事の内容だけが問題だというのではないのかもしれない。

 それほど、身勝手に、独善的に生きているつもりはなかった。しかし、愛し愛される幸福に恵まれるためには、君は冷たすぎるのだという指摘は、自分一人で跳ね返すのは難しかった。

 年が明けて、二月の酷く雪が降ったある日、リチャードは、思い詰めた表情で、ヘレンとの関係を洋子に告白した。激怒することもなく、ただ黙っている妻を見て、彼は続けて、離婚してほしいと言った。

     *

 蒔野聡史と武知文昭との新しいデュオのコンサートは、二〇一〇年春の埼玉を皮切りに、夏までに全国八カ所で催される計画だった。武知にとっては久しぶりのツアーで、その張り切りぶりは、面と向かって会っている時だけでなく、日記のようにマメに更新している彼のブログからも窺われた。

 台北で最初にこの話をしてから、本番までには七カ月の準備期間しかなかった。


第七章・彼方と傷/31=平野啓一郎 

#マチネの終わりに

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