ある男|21−5|平野啓一郎

香織はなかなか戻って来なかった。しばらくすると、颯太が、

「あっ、おとうさん、へんながめんになっちゃった。」

と、スマホを差し出した。城戸が見ると、他のゲームの広告ページになっていた。

「ああ、どっか、さわっちゃったんだな。」

そう言いながら、画面を操作してやっていると、丁度、携帯にラインの着信があった。上部にバナーが表示されて、見る気もなかったのに目に触れてしまった。

「昨日の夜」という言葉と、子供向けのシールのようなハートの絵文字がちりばめられたそのメッセージを、城戸は反射的に、何か壊れやすいものの上に落ちている埃のように、親指でそっと払い除けた。スワイプして画面から消えたあとも、送り主である香織の上司の名前が頭に残っていた。しかし、それはまだ、脳の中の「短期記憶」と呼ばれる領域に留まっているに過ぎないはずだった。そして、ありがたいことに、それはほどなく、覚える必要のないこととして、跡形もなく消え去ってしまうはずだった。

画面が暗転すると、城戸は、何事もなかったかのように、それをテーブルの上に伏せて置いた。

「おとうさん、ゲーム、もっとやりたい。」

「もうおわり。ほら、ちょうどおこさまランチ、きたから。たべなさい。」

「えー、……じゃあ、たべおわったらいい?」

「おかあさんにききなさい。」

城戸は、温くなったシメイを飲み干すと、ウェイトレスに更にもう一杯を注文した。

やがて、香織が帰ってきた。

「もう、女子トイレが、すごい行列で。──あ、来た、おこさまランチ?」

「うん、いまきたよー。もう、ぼく、まちくたびれたよ。」

「三杯目じゃない、それ? 大丈夫? 帰れる?」

「帰れるよ。ビールだし。」

城戸は笑って、颯太のハンバーグを腕を伸ばして小さく切ってやった。

隣の子供は、ようやくミルクにありついて、夢中で哺乳瓶を吸っていた。

窓の外には、快晴のめざましいほどに青い空が広がっていた。

いい休日だなと、城戸はそれを見つめながら思った。

昔、何かの小説で読んだ「ああかかる日のかかるひととき」という嘆声が脳裏を過ぎった。まさにそんな気分だった。

そして、確かそれは、梶井基次郎じゃなかったかと、ビールに口をつけながら、ようやく思い出せたと、音も立てずに小さく膝を打った。

* * *

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平野 啓一郎

ある男|平野啓一郎 連載小説

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