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『マチネの終わりに』第七章(42)

 一度だけ、蒔野から電話があって、こちらの携帯に洋子から連絡はなかったかと確認を求められていたが、彼女はそれに対しては、嘘を吐く必要もなく、ただ「ありません。」と答えただけだった。そして、信じ難いことに、彼女の犯したこの哀れな罪は、どうやら露見しないまま、現実をすべて彼女の思惑通りに変えてしまったらしかった。その経緯は今以て謎だったが、つまり、蒔野と洋子とは、あの夜を機に、恋人同士ではなくなったのだった。

 早苗は、その悪い奇跡のような幸福に、どことなく薄気味悪さを感じた。

 きっといつか、すべてを蒔野が知る時が来る。その恐ろしい不安は消えることがなかったが、一月経っても、二月経っても何事も起きず、彼女は、自分の罪が、知らぬ間に、もう半ば“無かったこと”になりつつあるのを知った。誰も気づかなかった。そして、これからももう気づかれることはないだろう。そう考えて、彼女は罪悪感を横目で見つつ、やはり安堵の方に先に手を伸ばした。

 蒔野は、洋子と別れた後、直ちに早苗を愛するようになったわけではなかった。

 グローブの野田に発破をかけられるがままに、《この素晴らしき世界~Beautiful American Songs》のレコーディングに集中し、休憩時間には、例によって与太話でスタッフらを笑わせていたが、どこか、心ここにあらずといった雰囲気だった。

 気が緩むと、その相貌には、すぐに「待っている」人の重苦しさが滲み、やがて自分でハッとしたかのように、それを空虚な、唐突な快活さで追い払った。

 早苗は、そういう彼を日々目にしながら、ただ早く時が経つことだけを祈っていた。どこか、他人事のように彼を憐れんでいることもあれば、自分の人間性を恥じることもあった。苦しまなくて良いはずがなかった。しかし、その胸の痛みこそは、彼女にとって一種の贖罪となった。

 彼のために自分が何をすべきかわからず、野田が進めていた《この素晴らしき世界》のプロモーションに、もう反発することもなく専念し、他方で、祖父江のギター教室の雑務を手伝うことから始めて、祖父江の介護と奏(かな)の育児にも協力するようになった。


第七章・彼方と傷/42=平野啓一郎

#マチネの終わりに

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