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『マチネの終わりに』第八章(40)

 数こそ少ないが、出産時の妊婦の死亡例がないわけではない。もしこのまま命を落とすようなことになれば、自分は、救い難く恥知らずな人間として、一生を終えることになってしまう。それを帳消しにするほどの善行を何も出来ないまま。――本当にそれで良いのだろうか? それで本当に、蒔野の人生の魅力的な脇役なのだろうか。……

 早苗は、洋子に対して口にした「正しく生きることが、わたしの人生の目的じゃないんです。わたしの人生の目的は、夫なんです!」という言葉を、戸惑いがちに振り返った。明らかに、それは言い過ぎで、そんなことを、常日頃から考えていたわけではなく、洋子に問い詰められて、咄嗟に口にしたに過ぎなかった。

 そう、洋子は早苗にとって、いつでも深く問いかけてくる存在だった。何を? 自分という人間そのものについてを。彼女を意識する度に、早苗は、胸を押さえつけられるような劣等感に苦しんだ。実際に洋子と会話をしたのは、四年前の一度きりで、その時彼女は、寧ろこちらの無理解に対して、優しく譲歩さえしていたはずだった。

 にも拘らず、早苗の心の中で、洋子の記憶は、水晶の欠片のように無慈悲なまでに透徹していた。そして、その光に照らされると、彼女は酷く焦って、決まって本当の自分よりも悪く振る舞ってしまうのだった。

 チケット売り場に並ぶ洋子の後ろ姿を目にした時、早苗は、それが誰であるのかが瞬時にわかった。そして、ためらう間もなく、振り返った彼女に声を掛けてしまっていた。

 蒔野よりも二歳年上であるので、もう四十四歳のはずだったが、洋子の風貌は、彼女が最後に新宿駅の南口で見かけた時と変わらず美しく、得も言われぬ存在感を放っていた。

 会話の間中、早苗はとにかく必死だった。どんな話の流れからか、結局は彼女に、蒔野を奪われてしまうのではないかという気さえした。

 真相を聞かされた洋子の悲愴な面持ちを見つめながら、改めてつくづく、なんてきれいな人なんだろうと思ったが、その彼女が、激昂するか、泣き出すかするのを、恐れつつ期待していないわけではなかった。


第八章・真相/40=平野啓一郎

#マチネの終わりに

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