『マチネの終わりに』第八章(26)

 洋子は、早苗が否定しないのを見て、目を閉じ、現実の世界から落剥してしまいそうな繊細な震えを、眉間の皺からその美しい額へと走らせた。そして、小さく首を横に振った。

 早苗は、その様子を、放心したような面持ちで眺めていた。それから、これまで必死で抱えてきた秘密の一切合切を、これを機に、みんな放り出してしまおうとするかのように、あの日、何があったのかを喋り始めた。新宿駅の南口で洋子を目にしたことも、メールは一通だけで、その後のやりとりには関わっていないことも、包み隠すことなく打ち明けた。そして、こう弁明した。

「洋子さんを欺してしまったのは、……申し訳なかったと思います。すみません。でも、あのままだったら、蒔野はきっと今もまだ、ギターを弾けない状態だったと思います。洋子さんには、洋子さんの素晴らしい人生があるじゃないですか。でも、わたしの人生は、蒔野を奪われたら、何も残らないんです! とにかく、どんな方法でもいいから、彼の側に居続けたいと思ってました。たとえそれが、人として間違っているとしても。――正しく生きることが、わたしの人生の目的じゃないんです。わたしの人生の目的は、夫なんです!……だから、お願いします。今日はコンサートには来ないでください。もう彼の人生に関わらないでください。今はもう、彼とわたし、それに、新しく生まれてくる子供の人生があります。」

 洋子は、早苗が語り終えるまで、ただの一言も発しなかった。

 彼女の振り回す短慮が、切れ味の悪い刃物のように自分を傷つけてゆくのを、黙って許していた。激しい憎悪を掻き立てられるというよりは、もっと空虚な感覚だった。そして、胸の裡で何度となく、なぜなのかしら?と呟いた。問う意味のないことは、百も承知の上で、彼女は、祈るようにしてその反復に縋った。

 臆病な覚悟が、早苗の存在に、一種特権的な優越感を齎していた。

 愛のためには、人として悖ることさえ厭わないという彼女の開き直りには、嫌悪感を覚えた。しかし、蒔野のために、自分はそこまで身を落とすことが出来ただろうかと、洋子は心細くなった。或いは、そうした方法を必要とすることなく、蒔野に愛され得た自分への、痛烈な復讐のようにも感じた。

第八章・真相/26=平野啓一郎 石井正信・画

#マチネの終わりに

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平野 啓一郎

『マチネの終わりに』後編

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コメント4件

これといった取り柄のない早苗がどんなことをしてでも蒔野との生活を維持しようとする。自分には蒔野しかないんだと。そのためなら何だってしようと。平凡だからこそ、悪事に手を染めることができたのでは。平凡さというものの恐ろしさを突きつけられた。そんな風に感じています。
自分の存在をかけて人を愛してしまったときの、行動と言動が早苗から感じられ、早苗を擁護したい気持ちにも、駆り立てられます。
信仰と同じように神の名を盾に彼の音楽を守るのは自分しかいないと言いつつ、結局は自分のため。異教徒を排除するように洋子さんなど犠牲でもいいと、言う勝手な正当性。ズタズタにされて心切り刻まれてる洋子さん思うと辛い。
個人的に、早苗は蒔野にとってのマルタでもマリアでもないと感じました。
いきなり彼女が聖書のマリアとマルタの話を持ち出して来て、自分なりの解釈を語りだす部分から感じた強烈な違和感と嫌悪感。もう一度読み直して再考してみたいと思います。
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