『マチネの終わりに』第七章(23)
「どうしてそんなこと訊くの? 考えたこともない、そんなこと。」
「君は以前のように笑わなくなったから。」
「そう? この顔見て。笑ってるって言わない、これ? 妊娠も大変なのよ。あなたもおなかに三キロの重りをつけて一日過ごしてみたら、なんだ、これのせいかって思うから。」
「君はやっぱり、あの日本人のギタリストと結婚すべきだったって、後悔してるんじゃない?」
「だから、どうしてそんなこと蒸し返すの? あなた自身が後悔してるから?」
「違う。」
「ただの“マリッジ・ブルー”ってことにしてくれたんでしょう? 今更、思い出したくないの。」
「僕は彼に今でも嫉妬してる。」
「嫉妬に値する関係でもなかったのよ。何度も言ったけど、……」
「アーティストっていうのは、嫌な連中だよ。」
「そうね。」
「いや、……お義父さんは別だけど。」
「彼こそ、典型よ。」
洋子はおかしそうに笑って、リチャードの手を甲から覆うようにして握った。
「愛してるわよ。――幸せよ、わたしは。」
洋子は、自分の未来として、ついぞ想像していなかった光景のただ中にいることを感じた。ニューヨークのチェルシーにあるピザ屋で、経済学者の夫と向かい合っている。三カ月後に、自分のおなかの中にいる子供と対面する彼の面には、ほとんど、ミッシェル・ウエルベックの小説に出てくる登場人物のような、人生へのやるせない諦念が滲んでいる。
なぜなのかしらと、洋子は自問した。
昔、友人の是永から聞いた人生の主役と脇役という話を、不意に思い出した。その人生観を語ったあの三谷という人は、蒔野と結婚し、今も願い通りに、彼が主役の人生の“名脇役”であり続けている。
なぜなのかしら。
彼にももう、子供がいるのかしら。妻の顔を、彼はこんなふうに見つめることがあるのかしら。……
第七章・彼方と傷/23=平野啓一郎
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