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新書『「カッコいい」とは何か』|第4章「カッコ悪い」ことの不安|5「義理」こそ「カッコいい」?

「カッコいい」存在への憧れが、人としていかに生きるべきかという「人倫の空白」を満たす上で果たした社会的機能を、決して過小評価してはならない――。平野啓一郎が、小説を除いて、ここ十年間で最も書きたかった『「カッコいい」とは何か』。7月16日発売に先駆けて、序章、終章、そして平野が最も重要と位置付ける第3章、4章を限定公開。 「カッコいい」を考えることは、「いかに生きるべきか」を考えることだ。
※平野啓一郎が序章で述べる通りの順で配信させていただきます。「全体のまとめである第10章にまずは目を通し、本書の肝となる第3章、第4章を理解してもらえれば、議論の見通しが良くなるだろう。」

5.「義理」こそ「カッコいい」?

宋学の「義理」
「仁義」は勿論、ヤクザ社会のキーワードであろうが、日本の思想史的な観点からすると、『仁義なき戦い』は『義理なき戦い』とした方がより正確だったかもしれない。そして、私たちが考えようとしている「カッコいい」は、「恰好が良い」だけでなく、恐らくは、この「義理」もルーツに持っている。

 義理というと、〝義理と人情の板挟み〟といった近世文学の主題がすぐに思い浮かぶが、日本思想史が専門の源了圓によると、元々、「義理」は、「礼儀行為が事宜に合致するという意味の『義』と、玉の条理から物事の条理、すじみちという意味になった『理』との複合語として、中国の春秋・戦国期に成立し、秦漢時代に中国の社会や文化に定着した」言葉だという。そして、「義」は「『礼』だけに限らず、『道義』ということを含めて『社会生活の中で人が処さねばならないこと全般』へ拡がっていった」(2)。

 義理という概念を発展させたのは宋学で、その理由は、商業の発展が利己主義を招き、また、北方の異民族の脅威が漢民族の危機として受け止められる中で、当時の主流な学問であった仏教と老荘が、人倫(人としての倫理)について無関心だったから、とされる。いずれも存在論的な思想なので、危機下ではより実践的で具体的な知が求められたのだろう。

 更に孟子の影響を受けて、「義」が相対的に不安定とならないように、「理」に一種の形而上学的な〝普遍の正義〟としての水準が導入された。

 この「義理」が九世紀になって日本に輸入され、歴史的に意味が変遷するのだが、源は、その語源との相違を次のようにまとめている。

「わが国の場合は、『義理』はAとBとの間の個人的関係における『好意の返し』『信頼の応答』であって、その関係が絶対であり、それを超える価値がほとんど存在しないが、宋学の義理は人間関係の道徳でありつつ、『天地』ないし『天』の文脈の中で論じられる。人間関係の義理は、天理に裏づけられねばならない。」

 中国の義理は、このような超越論的な規範であったが故に、「義理と人情」の相克といった悲劇はほとんど生じなかったという。当然、義理に従うべきだからである。

 人情が義理と拮抗するのは、それが単なる人間関係の規範である場合である。


統治のイデオロギーとして
 義理は、日本では最初、「わけ、意味、意義」と理解されていたが、中世後期に「物事の道理、理にかなった筋道」という秩序の原理としての意味が加わり、その後、「人として踏み行うべき道」という個人の生き方の規範たるべき道義的意味へと分化していった。更に、武士の社会的台頭とともに、その実践的な教訓として土着化していく。

 義理が大いに発展し、広まっていったのは近世だった。それは、宋学と同様で、仏教の人倫否定に対する儒学者たちの批判に発している。このことの意味は、「カッコいい」について考える上で非常に大きいので、留意してもらいたい。

 今日、私たちが〝武士道〟として思い描いている、百姓や町人とは違った武士の倫理は、この義理を巡って大いに議論されている。

 例えば、江戸時代初期の陽明学者である熊沢蕃山は、人間の欲望を否定しないが、義理を欠いては動物と同じで、

「欲の義にしたがって動くを、道と云」(『中庸小解』)

と説いている。

 また、より若い世代の儒学者・室鳩巣は、

「義理にさときをもて士とし、利欲にさときをもて町人とす。士として利欲にさときは、一向うけられぬ事にて候。」(『明君家訓』)

として、武士の倫理を義理に求め、現実には町人的な功利主義に堕落してしまった武士が多いことを嘆いている。彼が説いているのは、飽くまで武士としてのあるべき姿であり、その理想像から乖離しているのは、本書のテーマに従えば、「恰好がつかない」のであり、「恰好が悪い/カッコ悪い」のである。当然、それは恥ずべきことだった。

『葉隠』を書いた佐賀藩士・山本常朝は、室鳩巣とほぼ同時代人だったが、儒学者ではなく出家の身で、やはり当時の武士の武士らしからぬ有様をしきりに嘆いている。その『葉隠』を、まさに「カッコいい」という言葉が爆発的に広まった一九六〇年代に高く評価したのが、その時代に「ダンディ」として名を馳せた三島由紀夫だった(第7章参照)。

 三島は勿論、

「武士道と云ふは死ぬ事と見つけたり」

という『葉隠』の思想に強く魅了されていたのだったが、著書『葉隠入門』では、むしろ現代にも応用可能な実践的な人倫の書としてこれを高く評価している。そして、彼自身は、理想的な日本人と戦後民主主義下の日本人との乖離を批判し続けた小説家だった。

 義理は、武士にとってはまさにそのアイデンティティの中核をなす道義的規範だったが、徳川幕府は、その主従君臣の上下関係の強調により、統治のイデオロギーとして活用した。

 例えば、『東照宮御遺訓』は、実際には徳川家康が書いたのではない偽書だが、長く広く武士に読まれたもので、その中には「武道といふは命を的にかけ、義理を勤ることを第一とする」とある。この「義理」は幕府に対する忠信の意味である。また、『諸士法度』(一六三五年)には、「忠孝をはげまし、礼法をたゞし、常に文道武芸を心がけ、義理を専にし、風俗をみだるべからざる事」とある。

 この視点から、制度化されたのが、主君を討たれた武士の敵討ちである。つまり、『忠臣蔵』の大石内蔵助は、『仁義なき戦い』風に言うならば、「カッコつけにゃいけん」と信じ、また周囲からも「アンタが、カッコをつけてやらにゃいけん」と目されていた人物なのだった。


「人倫の空白」を満たす
 武士以外の庶民の間では、

「音信・付届を義理・順義といふ」(『百姓分量記』)

とあるように、贈答儀礼が重視された。「付届」は

「謝礼・依頼・義理などのために、他人に金品を贈ること。また、その金品」(『明鏡国語辞典』)

の意味である。現代で言えば、お歳暮や菓子折、寸志等、色々で、そうした贈与に対して返礼を欠かないという、私たちが用いている「義理」という言葉の意味と、かなり近い内容が説かれている。

 源は、一七世紀に「義理」という言葉が一般に普及するに際して、それまで日本にあった「ゆい」や「もやい」のような文化が、この言葉に吸収されてゆき、宋学的な意味とは凡そ懸け離れた、借金の返済だとか、約束を守るだとか、何かをしてもらったからにはこちらもお返ししないといけないだとか、世間的な体面といった、多様な「名誉の道徳」と化していったと指摘している。そして、それが日常生活を成立させる基礎的な規範となっていった時、その慣習的で、超越論的な正義概念を欠いた絶対的な拘束力の故に、しばしば「人情」との矛盾が露呈し、その相克が悲劇を生むこととなったのだった。

 明治以降、武士道的な義理は、用語としては政府の文章から消えたが、儒学者たちが「天理」を導入したその形而上学的な根拠は、天皇制のイデオロギーにすり替えられ、また武士の道義は、「教育勅語」的な忠孝に置き換えられて再解釈され、意味的には存続したと見るべきだろう。

 他方、言葉としては、「あの人は義理堅い」などと言うように、より明確に庶民の「義理」の方が残って、今日にまで至っている。

 武士道的な義理は、戦後社会では、強欲に対する戒めとして一種の精神主義に引き継がれ、またその「主従君臣」は、ある意味、企業文化の中に持続することになった。「愛社精神」は、愛国教育の変質したもののように見えるが、義理という概念に注目することで、より古い歴史に接続することが出来そうである。

『仁義なき戦い』の「カッコつけにゃいけん」は、こうした武士道的な義理が、特異に顕著に残った世界を描いているが、既に指摘したように、その「子分は親分に刃向かってはならない」という掟の根拠は失われており、それはただヤクザ社会の存続のためという実利的な意味しかない。

 一方、私たちが、生き様として「カッコいい」を考える時には、直接的に、この庶民の義理から外れていない、ということもしばしば含まれるだろう。恩知らず、礼儀知らず、というのは、決して「カッコいい」ことではなく、また丁重なもてなしを受けたまま、返礼もしないでいるのは、「格好がつかない」ことである。

 しかし、それよりも遥かに重要なことは、義理が、宋の時代にも江戸時代にも、「人倫の空白」を埋めるために求められた、という事実である。

 既に見てきた通り、「カッコいい」が爆発的に広まったのは、一九六〇年代だったが、戦後、大日本帝国の思想教育から解放された日本人が、民主主義と資本主義が発展してゆく社会で直面していたのも、この「人倫の空白」に他ならなかった。

 一体、個人は何のために、どのように生きてゆけばいいのか? 実存主義は、まさしくその孤立を主題としていたし、三島由紀夫のように、戦後の日本社会にニヒリズムを見て、生の「大義」を天皇制の復活に求めた人もいれば、マルクス主義に求めた人、宗教に求めた人、仕事に求めた人と様々だった。

 この時、「カッコいい」存在への憧れが、人としていかに生きるべきかという「人倫の空白」を満たす上で果たした社会的機能を、決して過小評価してはならない。

「カッコいい」存在は、個人主義の社会の中で、人から侮られない振る舞いを教え、その生き方の手本を示し、同化・模倣のための努力を促して、大衆にすべきこととすべきでないことを判断させた。しかもそれは、決して画一的でなく、上からの押しつけでもなく、自発的に、その体感的な感動と共に受容された「人倫」だった。

 同時に、江戸時代の義理が、宋の時代のそれと違って、超越論的な規範を持たなかったように、「カッコいい」理想に提示された生き方も、相対的にならざるを得ず、その支配的な地位を巡る競争や法秩序との相克が、ある意味では社会を活性化させ、またある意味では混乱させた。

 この事実を踏まえ、次章では、更に「カッコよさ」の倫理性と多様性を、デザインとファッションを通じて考えてみたいと思う。

脚注
(2)以下の引用及び「義理」については、『一語の辞典 義理』(源了圓)に拠った。

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