『マチネの終わりに』第八章(13)

 蒔野の音楽的な不調のことは、あの頃も是永から耳にしていて、彼自身から届いた別れのメールにも、それが示唆されていた。しかし、その後、彼がこんなにも長い間、沈黙し続けていることなど、想像だにしていなかった。

 洋子は心配になって、やはり三年ぶりに「蒔野聡史」という名前を検索してみた。ウィキペディアの更新も滞っていたが、一ページ目の途中に出てきたクラシック専門誌のサイトには、この春からスタートしたというコンサート・ツアーについてのインタヴュー記事が出ていた。

 久しぶりに写真で目にした蒔野は、少し太ったようだったが、笑顔は明るく、瞳には生気が満ちていた。洋子は、それを見た瞬間から、懐かしさで胸がいっぱいになってしまった。

 記事は、冒頭で丸二年以上に亘った音楽活動の休止に触れていたが、それにはただ、

「まぁ、三歳の頃からギター漬け、音楽漬けでしたからね。休養が必要な時期だったんでしょう。」

 と答えていただけだった。長い記者生活のカンと蒔野の性格とから、洋子は、インタヴューの現場では、冗談交じりに、多分もっと饒舌に語っていたのではないかと想像した。それをみんな、ゲラで削ってしまったのだろう。そのどこかには、ひょっとすると、自分との関係に触れるような話もあったのだろうか? 彼は、自らの別れの決意を後悔したことがあっただろうか? それとも、ただ束の間の関係として、すぐに忘れてしまっただろうか?

 新しいデュオによるツアーらしく、共演者のことは知らなかったが、彼が意欲的になっていることは文面からも伝わってきた。

 彼の人生が今日まで停滞していたことを、洋子は喜んだわけではなかった。しかし、彼がまだ、思ったほど遠くには行っていない感じがした。

 そして、今はもう、前に進もうとしている。――自分も。……

 同じように、新しい人生を歩み始めるのであれば、そのどこかで、今度は友人として、出会い直すということもあるのかもしれない。

第八章・真相/13=平野啓一郎 石井正信・画

#マチネの終わりに

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平野 啓一郎

『マチネの終わりに』後編

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