ある男|20−1|平野啓一郎

「曾根崎義彦」との待ち合わせは一時だったので、城戸と美涼は、駅ビルのレストランで簡単に昼食を摂り、そこで一旦別れた。

 最初は城戸が一対一で面会し、あとから美涼が合流する段取りになっていた。場所は、名古屋駅から歩いて十分ほどの場所にあるコメダ珈琲を指定されたが、周辺に何軒も支店があり、この辺りに不案内な城戸は、約束の時間に五分ほど遅れた。

「曾根崎義彦」が谷口大祐なら、写真で顔を知っていたが、それも十年以上前のものであり、すぐにわかるかどうか不安だった。

 店員に待ち合わせを告げると、あちらではないかと、喫煙席を促された。隣と木の衝立で仕切られた四人がけの席に、何となくちぐはぐなスカジャンを着て、グレーのニット帽を被った男が座っている。

 こちらを見ていた。城戸は、声にならない吐息を漏らした。そして、スカイプで初めてその声を聴いた時と同様に胸の鼓動を高鳴らせた。歳は取っていたが、間違いなく、谷口大祐だった。

『――ちゃんと生きてる。……』
 城戸は、自分が最後まで捨てなかった原誠への信頼を思い、上気したように頬に熱を感じた。

 タバコの煙とコーヒーの入り混じった臭いが一帯に立ち籠めていた。席に辿り着くと、城戸は名刺を差し出して挨拶をした。男は、恐ろしく緊張した面持ちで無言で頭を下げ、名刺の裏表をしげしげと見ていた。

「谷口大祐さんですよね?」
 城戸が尋ねると、「曾根崎義彦」のはずの男は、一瞬、不機嫌そうな顔になり、躊躇した後に「そうです。」と言った。城戸が微笑むと、反射的にぎこちなく頬を歪めた。

 年齢は、城戸よりも三つ年上の四十二歳のはずだったが、浮腫んだ肌には艶がなく、酷く疲れた目をしていた。コーヒーを注文すると、「あの、」と向こうから口を開いた。

「曾根崎で呼んでもらえます? あと、タバコ、いいですか?」
「どうぞ。すみません、曾根崎さんとお呼びします。」
 谷口大祐は、一服すると、少し落ち着いたように続けた。

「経験してない人にはわからないでしょうけど、戸籍を交換して、一年も経ったら、本当に別人になるんですよ。谷口さんって言われても、正直、アレ、俺のこと? みたいな感じで。過去も一緒に全部入れ替えてしまうから。俺も、戸籍交換するまでは、谷口家の人間のこと、憎んでましたけど、今はもう、他人事ですね。フェイスブックで谷口恭一さんを見ましたけど、田舎の温泉のイタい社長にしか見えませんでしたし。」

「昔のこと、思い出したりもされないんですか?」

「人間関係も断って、その土地から離れたら、自然と忘れていきますよ。――いや、ただ忘れようとしても、忘れられないですよ、嫌な過去がある人は。だから、他人の過去で上書きするんですよ。消せないなら、わからなくなるまで、上から書くんです。」

* * *

平野啓一郎新作長編小説『ある男』発売中。

読者のみなさまへ

この続きは平日毎日noteにて掲載します。また、平野啓一郎公式メールレターにご登録いただくと、毎週金曜日に先行して無料で続きを読んでいただくことができます。コメント欄での作品へのご意見やご感想もお待ちしております。


この記事が気に入ったら、サポートをしてみませんか?気軽にクリエイターを支援できます。

14

平野 啓一郎

ある男|平野啓一郎 連載小説

平野啓一郎の最新長編小説『ある男』を平日毎日連載中。 また、平野啓一郎公式メールレターにご登録いただくと、毎週金曜日に先行して無料で続きを読んでいただくことができます。
コメントを投稿するには、 ログイン または 会員登録 をする必要があります。