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『マチネの終わりに』第六章(20)

「外傷と関連した刺激の持続的回避と、全般的反応性の麻痺、というのが、PTSDの本質ですから、そのイラク人の女性の存在が、薄れつつあったバグダッドでの記憶を呼び起こさせて、からだがそれを拒絶しようとしている、という解釈の可能性は否定できません。」
 医師は、そこで一呼吸置くと、心配そうな面持ちの洋子に語りかけた。
「一般論というのは、しかし、あまり意味のないことです。大事なのは、あなたにとって、ジャリーラがどういう存在かということです。」
 洋子は、何か大事なことを尋ねられた時にはいつもそうであるように、即答せずに、しばらく黙って考えていた。そして、自分の体調のためにも、出来るだけ正直に、偽るところなく胸の裡を説明しようと努めた。
「わたしは彼女を、身内のように愛してます。――それは本心ですが、本心であってほしいとも願ってます、きっと。……地下鉄で、ただこちらを見ていただけのアラブ系の男性に、ほとんどイスラム恐怖症的な反応を示してしまった時、わたしは自分を責める一方で、すぐにジャリーラのことを考えました。違う、そうじゃない、現にわたしはバグダッドから命懸けで逃れてきた一人のイラク人女性の面倒を看ているのだから、と。わたしが差別主義者じゃないことは、他でもなく、彼女が断言してくれるはずだ、と。」
「なるほど。」
「色んな意味で、彼女の存在は、今のわたしの拠りどころなんです。やっぱり、……自分の中の何かが壊れてしまった気がするんです、バグダッドで。パリに戻って来ても、自分は違うんだって思ってしまう。同僚と話していても、ギャップが大きくて。――でも、ジャリーラが来てからは、わかってくれる人がいるっていうだけで、心の支えになってます。彼女がいてくれて、本当によかったと何度思ったことか。実際、わたしのイラク体験なんて、彼女に比べれば、あまりにもささやかで、だからこそ、パリの友人たちとの間にギャップを感じながら、それを強調することもできずにいました。だけどジャリーラは、わたしがあの日、本当に、あと数分長くホテルのロビーにいたら、死んでいたことを知ってるんです。


第六章・消失点/20=平野啓一郎 

#マチネの終わりに

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