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『マチネの終わりに』第六章(23)

 洋子はその日、一番穏やかな表情になって、
「わたしが今、一番好きな人が、教えてくれた言葉なんです。」
 と言った。

 洋子は、蒔野のことを考えない日はなかった。寝付かれない夜には、彼と抱擁を交わしたソファに身を横たえて、ただ彼のことだけを考えることにした。そして、たった一年前の、彼と出会う以前の自分をふしぎな心地で振り返った。
 十一月のあの日、少し前に知り合ったばかりのレコード会社の是永に、蒔野のコンサートに誘われなかったなら、自分は今もまだ、あの彼を愛さなかった小峰洋子という人間を生きているはずだった。そして、彼のマドリード滞在中に、リチャードと別れる決断を下していなかったならば、今は恐らく、彼との愛を断念した自分を生きていたはずだった。
 洋子は自分が、出口が幾つもある迷宮の中を彷徨っているような感じがした。そして、誤った道は必ず行き止まり、正しい道へと引き返さざるを得ない迷宮よりも、むしろ、どの道を選ぼうとも行き止まりはなく、それはそれとして異なる出口が準備されている迷宮の方が、遥かに残酷なのだと思った。
 ただ、蒔野の愛の中で、今の自分をなくしてしまいたいという欲求の一方で、その愛のためには、自分自身を維持しなければならないという義務感を抱き、その矛盾した思いに、洋子は次第に引き裂かれていった。

 医師からは、PTSDの症状が治まるのには、早くても一年ほどかかるだろうと告げられていた。決して焦ってはならず、それは、必要な時間として受け容れなければならない、と。しかし、何事もなく、パリでの日常生活に着地できたように感じていた洋子にとって、そのショックは大きかった。
 医師に尋ねて、PTSDについての一般書、専門書を数冊読み始めたが、イラクで度々耳にした「制御不能uncontrollable」という言葉が度々脳裏を過った。
 職場での感情的な暴発を、彼女は今のところ抑制できていて、同僚たちは、誰も洋子の異変に気づいていなかった。
 しかし、そういう不安定な状態のまま、蒔野に会うことはできるのだろうか?


第六章・消失点/23=平野啓一郎 

#マチネの終わりに

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