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『マチネの終わりに』第八章(46)

 友人として、洋子の自立に協力したいというリチャードの言葉に嘘はないと感じたが、同時に、いかにも不安定らしい彼女の勤務形態の故に、自分たちがケンと過ごす時間も増えるのではないかと判断した様子だった。

 そしてやはり、早苗と東京で交わした会話も、洋子には、少なからぬ影響を与えていた。

 今更蒔野との復縁を求めて、コンサートに足を運んだわけではなかったはずだった。しかし、早苗の警戒心が即座に嗅ぎつけたそうした期待を、彼女は振り返って、自分の無意識の裡に認めざるを得なかった。そして、どうかしていると思った。

 彼女はそうした類いの自分の未練がましさを、これまで決して知ることがなかった。それだけ蒔野が特別の存在だったことを思う一方で、やはり、自分の人生が、未来の展望を欠いているが故に、こうも過去に拘泥してしまうのではあるまいかという気がした。

 早苗のしたことは軽蔑していたが、彼女本人を恨むというよりは、人生そのものに対する索漠とした思いの方が強かった。ジャーナリストとしては、もっと理不尽で、もっと過酷な困難を生きる人々を、これまで散々取材してきた。自分も、彼らと地続きの同じ世界を生きている。そうした発想は、なるほど、感情生活に一種の粗雑さを招きかねなかった。どんな体験も、戦地と比べ出せば、「まだマシだ」という一言で片付けられてしまう。しかも彼女は今、そうした場所への関与を強めつつある。それでも、悲哀は悲哀として、彼女の手許に残り続けていた。

 ただ、洋子がどうしても気になっていたのは、蒔野が真相を知っているのかどうかだった。早苗のメールのこと、そして、当時の自分の体調のこと。……

 もし知らないのなら、誤解を解きたかった。しかし、何のために? 恐らくは、そうすべきでなかった。洋子は早苗のお腹の膨らみを、今もありありと覚えている。あの子に罪はないはずだった。何も知らせずに、蒔野にあの子の父親として幸せに生きてもらうことをこそ願うべきではあるまいか。――洋子はそれを、自分の彼に対する愛の最後の義務だと信じることにした。


第八章・真相/46=平野啓一郎 

#マチネの終わりに

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