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ある男|23−2|平野啓一郎

声変わりもして、近頃では、うっすらと髭も生えてきたようで、死んだ父親の電気カミソリをどこからか引っ張り出してきては、見よう見まねで使ってみたりしていた。DNA鑑定でも、その電気カミソリの中に残っていた髭が役に立ったのだった。

自分に白髪が増えるはずだと、里枝は息子のからだの成長を見ながら、つくづく思った。

城戸の調査結果を知らせるべきかどうかは悩んだが、既に偽名であることは伝えていたので、ある程度は話すより他はなかった。

それに、里枝は、他の十四歳の男の子ならともかく、悠人には、隠さずに話した方が良いのではと考えていた。

彼女は最近、息子を子供扱いすることを、努めて止めようと心がけていた。

一つに彼女は、母子家庭という環境で、悠人が〝マザコン〟になってしまうことを真面目に懸念していた。思春期になり、息子の方も同じことを気にしている風で、彼がこのところ、母親との距離を掴みかねているのは、恐らくそれもあるのだった。

尤も、その意味では、寧ろいつまでも子供扱いしている方が気が楽なところもあった。というのも、子供でないとすると、大人の男性が一人同居しているということになり、父親が不在の家庭では、それはそれで、余計な意識の元となるからだった。

しかし、里枝が悠人の見方を改めないといけないと思うようになったのは、息子の中に、何か自分にはわからない部分があることに気づいたからだった。それは、理解できないことというのではなく、彼女の知らないことだった。そして、息子がいつの間にか、自分とはかなり違った人間になっていることに驚き、喜びを感じ、一人の人間として尊重しなければならないと思うようになっていた。

もちろん、年長の最も近しい人間として、言うべきことは言ったが、注意するという口調を止め、自分の不満が何かを説明するようにしていた。

里枝の心がそんな風に変わったのは、悠人の文学熱のせいだった。

彼女は、古墳群公園で悠人に教えてもらった芥川龍之介の『浅草公園』を読んでみて、深く考え込んでしまった。短編映画か何かのシナリオらしいが、看板がそのまま「サンドウィッチ・マン」になったり、円い郵便ポストが透明になって中の手紙が見えたりと、不安な夢が、そのまま書き綴られたような〝シュール〟な内容で、あまり読書家でない里枝は面喰らった。しかし、彼女が目を瞠ったのは、「十二三歳の少年」が、東京の浅草で一緒に来ていた父親とはぐれてしまい、心細く探して回るというその話自体だった。

少年は、仕舞いには、石灯籠に「腰をおろし、両手に顔を隠して泣きはじめる」。しかし、その時に、少年の知らぬところでは、最初に父親と見間違った「マスクに口を蔽った」、「何か悪意の感ぜられる微笑」を湛えた男が、いつの間にか、見失った父親に変化するのだった。

里枝にはその意味がわからなかった。しかし彼女は、その少年が泣き出すところで、自分も思わず泣いてしまった。彼がかわいそうだからと言うより、悠人がこの場面を共感しながら読んでいるところを想像して、涙が出てきたのだった。特に最近は、辛いとも、寂しいとも訴えるわけではなかったが、そうでないはずがなかった。

それにしても、彼女が驚いたのは、悠人がこれを読んでいたのが、父が実は「谷口大祐」という人間ではないと教える前だったことだった。

たまたまだろうか? それとも、自分の知らないところで、何かを感じ取っていたのだろうか?

悠人は一体、どんな気持ちでこの話を読んでいたのだろうか?

里枝は、「急げ。急げ。いつ何時死ぬかも知れない。」といった唐突な一文に胸を締めつけられた。悠人はしかも、これが父親と離れ離れになる話だとは里枝に言わず、少年と鬼百合との奇妙なやりとりに言及しただけだった。それでも、彼はやはり、これを読んでいるということは、恐らく母親に知ってほしかったのではなかったか。

里枝は、作品そのものの理解は覚束なかったが、悠人が感情移入し、婉曲な方法で母親とそれを共有したがっていたことを通じて、息子という人間のことが、以前よりも深く理解できるようになった。少なくとも、その内面の深みを知ることが出来た。そして、こんなに毎日、直接に顔をつきあわせているのに、一冊の本を介することで、却って息子の心に近づけたことがふしぎだった。

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