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新書『「カッコいい」とは何か』|第4章「カッコ悪い」ことの不安|1「カッコ悪い」とは何か?

「カッコよさ」は、最初は、〝憧れの誰か〟という他者を経由してこそ追求されるべきものなのかもしれない――。平野啓一郎が、小説を除いて、ここ十年間で最も書きたかった『「カッコいい」とは何か』。7月16日発売に先駆けて、序章、終章、そして平野が最も重要と位置付ける第3章、4章を限定公開。 「カッコいい」を考えることは、「いかに生きるべきか」を考えることだ。
※平野啓一郎が序章で述べる通りの順で配信させていただきます。
「全体のまとめである第10章にまずは目を通し、本書の肝となる第3章、第4章を理解してもらえれば、議論の見通しが良くなるだろう。」

1. 「カッコ悪い」とは何か?

 さて、ここまで「カッコいい」という言葉について、その語源に遡ったり、「しびれる」という体感に注目したりしながら考えてきたわけだが、第4章では、視点を変えて、「カッコ悪い」とは何か?について考えてみたい。

 もし、「カッコ悪い」が文字通り、「カッコいい」の対義語であるならば、私たちはその意味を知ることで、「カッコいい」とは何か?の答えに辿り着けるはずである。

 が、どうもそう単純でもなさそうである。

「カッコいい」人間になりたいか?
 そもそも、私たちは、「カッコいい」人間になりたいと、それほど強く願っているだろうか?

 こんな問いかけは、これまでの主張と逆のようだが、必ずしもそうではない。

 私たちは、錦織圭なり、リアーナなりといった、具体的な「カッコいい」人に強く憧れ、「自分もあんなふうになりたい!」と、テニス・クラブに入会したり、歌やダンスを練習したりする。

 その同化・模倣願望は非常に強いものなので、ヘトヘトになるような練習でさえ、進んで喜んでやるし、耐えることも出来る。というより、そのこと自体が生の充実感となり、また、端から見ても、その努力が「カッコいい」と評価される。

 スポ根もののマンガにせよ、アスリートに密着するテレビのドキュメンタリー番組にせよ、汗だくになっての猛練習の映像は、努力そのものを「カッコいい」化する。自らの個性を表現すべく、何か一つの物事に必死に打ち込んでいる姿は、多くの人に「カッコいい」と受け止められているし、羨ましがられもする。

 けれども、自分自身が人から「カッコいい」人間だと思われたい、という願望は、実のところ、比較的、〝淡い夢〟ではあるまいか?

「ヘェー、カッコいいね!」とは言いつつ、そのまま受け流している人や物は日常的に少なからずあるだろう。

 その感動が特に強かった場合は、対象に好意を寄せる。ファンになるか、恋愛感情を抱くか、物ならそれを所有したいと思うか。

 しかし、特に具体的に憧れの人がいるわけでもなく、ただ「カッコよく」生きたい、それが人生のモットーだ、という人は、実際は、あまり多くはない。時々そういう人に出会さないでもないが、どことなくナルシシスティックで、逆に「カッコ悪い」感じさえする。その意味では、「カッコよさ」は、最初は、〝憧れの誰か〟という他者を経由してこそ追求されるべきものなのかもしれない。


カッコ悪い化(ダサい化)
 では、「カッコ悪い」はどうだろうか?

 私たちが、自分は「カッコ悪い」と意識した時、まず感じるのは羞恥心だろう。

 大袈裟なことではなく、例えば、ズボンのお尻が破れていただとか、大事な場面で滑って転んだだとか、場違いな服装で何かの集いに出席した、カラオケで音を外しまくった、……など、とにかく、日常生活の中には、「カッコ悪い」状況が幾らでもちらばっている。

「カッコ悪い」は、差別意識とも結びついており、チビ、デブ、ハゲ、ブス、不細工、……といった身体的特徴を揶揄する言葉ともしばしば結びついている。日本語には、欧米の言語と比較して、性的な内容を含んだ下品な罵り言葉が少ない代わりに、この手の侮蔑言葉が多いとも言われる。

 しかし、眉目秀麗であっても、言動がみっともなければ「カッコ悪い」と目されるし、逆に容貌に秀でた点がなくとも、生き様に魅力があれば、「カッコいい」と憧れられるというのは、これまで見てきた通りである。
「カッコ悪い」と指摘されたり、噂されたりすると、私たちは、赤面し、心臓の鼓動が大きくなるのを感じ、なんとか「カッコ悪くない」状態に復帰したいと願う。これもまた、強い体感を伴うが、凡そ誤解の余地がないような、ハッキリとした負の体感である。

 どうにかその状況を脱しても、自分が、人の記憶の中に、そんな姿で残っていることを想像すると、耐え難いものがある。出来ればその記憶を消去したいほどである。

 冗談半分に笑い飛ばせることもあるが、恥を掻かされたことを、いつまでも恨み続けることもある。深く傷ついて、もうそこにいた人たちとは絶交する、という深刻なケイスもあるだろう。

「カッコいい」存在は、尊敬され、愛される。しかし、「カッコ悪い」存在は、人から笑われ、侮られ、同情され、馬鹿にされる。そして、「カッコいい」と言われるラッキーよりも、「カッコ悪い」と言われるリスクの方が、恐らく一般には高く、またその喜びよりも、ダメージの方が大きい。

「カッコいい」も「カッコ悪い」も、ある意味では、普通からの逸脱だが、当然、「カッコいい」が普通以上であるのに対して、「カッコ悪い」は普通以下である。あるいは、正負は逆ながら、いずれも「非日常的」だと言うことが出来るだろう。

 この微妙な関係に着目した福岡県警は、暴走族を「珍走団」と呼ぶという奇抜なキャンペーンを行った。かつて、漫画『湘南爆走族』で描かれたように、暴走族には「カッコいい」というイメージがあり、それが少年たちの憧れの感情を刺激し、メンバーの自尊心を満たしてきたが、「珍走団」という思わず吹き出すようなネーミングによって、彼らを滑稽化し、社会的に恥ずかしい存在であることを印象づけたのである。

 この「カッコいい」から「カッコ悪い」への貶め、転落を、後の議論のために、「カッコ悪い化(ダサい化)」と呼ぶことにしよう。このケイスのように、意図的に「ダサい化」されることもあれば、技術の「陳腐化」などと同様に、自ずと「ダサい化」してしまうということもある。


「カッコ悪い」のはイヤ!

 私たちの日常では、普通であることこそが一種の安心となっている。その意味では、「カッコいい」人間になりたい、という積極的な願望を抱いている人より、せめて、「カッコ悪い」人間ではいたくない、という程度の意識の人の方が、遥かに多いだろう。

「カッコ悪い」という形容詞は、「恰好が悪い」という原義を、「恰好が良い/カッコいい」以上に強く留めている。私たちが「カッコ悪い」という時には、それがどういうことなのかを、多くの場合、事前に了解している。その規範からハズレていると、「カッコ悪い」と感じられるのであり、「しびれる」ほど「カッコいい」理想像とは違うからといって、「カッコ悪い」とまでは言わない。

 他方、恥の概念そのものは古くからあったろうが、「恰好が悪い」という言葉には、「カッコ悪い」にあるような強い羞恥心を伴った負の体感はなかったようである。

 先ほど、「ダサい化」という言葉を使用したが、「ダサい」自体は、一九六〇年代に「カッコいい」という言葉がブームになったのを受けて、七〇年代前半から関東で使用され始め、全国に広まった言葉である。(1)これは、今日でもほぼ「カッコ悪い」と同義で使用されている。

「カッコ悪い」状況は、私も身を以て色々経験しているが、それは、何か一時的なことだったと思いたいし、出来れば人にも忘れてほしい。なぜなら、それはアイデンティティにまとわりついて、著しく自尊心を傷つけるからである。

 たまたまその日は、気が抜けていたか気合いが空回りしたかで、「ダサい」服を着ていたが、普段は違うのだと知ってほしい。感情的になって、小さなことに拘り、「カッコ悪い」と呆れられたが、その日は別のことでイライラしていて、虫の居所が悪かったのだ。……云々。

 つまり、私たちはここでも、「カッコいい」と同様に、「カッコ悪い」というのが、一体、表面的な評価なのか、本質的な評価なのかという二元論にぶつかってしまうわけである。

 そこで、私たちは人をして「カッコよく」なりたいと思わしめる二つの力を次のように分類してみよう。

 一つは、「しびれる」ような生理的興奮を伴って、自ら能動的にその「カッコいい」対象に憧れる同化・模倣願望。

 もう一つは、社会的な常識や規範など、普通である、とされることから逸脱していて、「カッコ悪い」と見做されている時の「恰好が良い(カッコいい)」への復帰・同調願望。こちらはしばしば同調圧力をも伴っている。

 この両者が一体となって作用し、「カッコいい」は民主主義と資本主義とが組み合わされた世界で、異例の動員と消費の力を発揮してきたのである。

 このことを、近代という時代そのものを通じて考える上で、明治時代の断髪と洋装の歴史を見てみよう。

脚注
(1)『日本俗語大辞典』

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