『マチネの終わりに』第七章(8)
「せっかく久しぶりに会ったのに、湿っぽい話になってしまって悪いね。」
「ううん、全然。」
「何とかしないとな、とは思ってるんだよ。俺にも生活があるし。チャラチャラ、テレビに出たりしてるのも、いい加減、ウンザリしてるから。」
「教えるのも無理なの?」
「だって、……こっちが弾けないと。祖父江先生のところも、今は人に来てもらってる。なんか、奏(かな)ちゃんが手足口病のことですごく責任を感じていて、それも心苦しいんだけど。俺は、彼女や彼女の子供に対して恨みがましい気持ちは、これっぽっちもないんだよ。それは本当に。」
「でも、蒔ちゃんの手がボロボロになって、爪が全部剥げちゃったりしてるの見たら、平気でなんていられないよ。」
「丁度、《この素晴らしき世界》のレコーディングを終えたところだったのが、せめてもの救いだったよ。あれと、その前に出してた《アランフェス》の収入でどうにか喰いつないでたから。」
「あのネットでやってる一般人参加のコンクールみたいなの、面白いね! 僕も、こっそり一曲、応募しようかと思ったよ。」
「武知君が弾いたら、すぐわかるよ、そんなの。あれも、レコード会社の担当は――グローブの野田っていう若い社員、知ってる?――もっと派手にやりたかったみたいだけど、俺が直接、登場できなくなっちゃったから、中途半端になってる。それでも、過去の映像を整理したりして、どうにかサイト自体は成立させてるけど。」
蒔野は、小さく嘆息すると、つと顔を上げて、
「武知君の方は? そう言えば最近、俺にCD送ってくれなくなったねぇ? え? 俺は送ってるのにさ!」
と冗談めかして彼を咎めた。
「だって、CD自体、出してないもの。元々売れなかったけど、多分、僕はもう、CD出せないと思う。実際、レコード会社には提案してるんだけど、断られてるし。コンサートも決まらないしね。だから、今回は本当にありがたかったんだよ。タイミング的に、色んな人が断ったあとで、僕に回ってきたのかなって気もしたけど。」
第七章・彼方と傷/8=平野啓一郎
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