『マチネの終わりに』第六章(58)
自分にせよ、パリで彼女がコンサートに来なかった理由を説明されたあとでは、当然のように、そういう事情なら、ジャリーラのことを優先させるべきだと思ったはずだった。新宿駅では待たせてしまうことになったが、三谷の携帯で書いたメールで、状況は理解してもらえたはずだと信じていた。
今日ではなく、昨日会うということには、何か洋子にとっての特別な意味があったのだろうか。或いは、何か思いもかけないトラブルに巻き込まれているのか? 事故か、急病か。――むしろ、そちらの方が心配になってきた。
洋子からのメールが届いたのは、遅い昼食を取り終えた、午後二時過ぎだった。所在なく、ギターの弦を張り替えていた蒔野は、その内容に眉を顰めた。
「御返事、遅くなってごめんなさい。
突然のことだったので、なかなか気持ちの整理がつけられなくて。
メール、ちゃんと届いてます。
わたしなら、理解してくれるはずだという信頼に応えるのは、蒔野さんが思ってるほど簡単じゃないけど、事情はよくわかりました。
長崎で、母と親子水入らずでゆっくり過ごしてきます。
わたしにも、少し時間が必要です。
小峰洋子」
洋子は長崎に、一人で行くつもりなのだろうか? 蒔野は何度かメールを読み返して、不安になってすぐに返事を書いた。
「メール、ありがとう。よかった、連絡が取れて。
改めて昨日はごめんなさい。今日はこのあとずっと自宅にいるので、いつでも会えます。こういう状況だけど、長崎には僕も行きます。洋子さんの都合を教えて下さい。」
洋子からは、今度はすぐに返事が来た。
「無理でしょう、この状況で一緒に長崎なんて。
わたしは大丈夫だから、気づかいならやめて。」
確かに、祖父江の容態がいつ急変するかはわからなかった。今は祖父江の側にいるべきだというのは、洋子らしい考えだったが、それにしては、昨夜会えなかったことを気にしている様子だった。
第六章・消失点/58=平野啓一郎
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