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ある男|17−1|平野啓一郎

夕食にすき焼きを食べ、颯太が今日は母親と一緒に寝たいというので、入浴後は妻に任せて、城戸はキッチンで洗い物をした。それから、ソファに寝転がって、ミシェル・ンデゲオチェロを聴きながら、バンドでベースを弾いていた大学時代を思い出しているうちに、いつの間にか眠ってしまっていた。

酷く疲れていた。

目を覚ましたのは、十一時を回った頃だった。裸足の足先が冷たく、暖房の温度を上げて、何となく、普段は見ないテレビをつけた。しばらくザッピングをしていると、旭日旗を掲げた物々しい集団が、「朝鮮人をガス室に送れ!」などと叫びながら、新大久保を練り歩いている映像が目に飛び込んできた。ニュース番組の「ヘイトスピーチ」の特集らしく、城戸は、選りにも選ってと、辟易してテレビを消そうとした。

ところが、「現場には、カウンターデモをする人々の姿も──」というテロップとともに、「仲良くしましょう! チナゲチネヨ!」というプラカードを持った女性が映し出されたところで、驚いてソファから飛び起きた。一瞬だったが、恐らく美涼だった。

『──何してるんだ、こんなところで?』

その時、背後で、「……おとうさん、」と呼ぶ声が聞こえた。

振り返ると、颯太が寝ぼけ眼を擦りながら立っていた。

「ん? どうした?」

「めがさめた。……なにみてるの?」

颯太がソファに歩み寄ってきた。城戸は、警察を挟んで、デモ隊が怒鳴り合う声を聞きながら説明に窮した。すると、次の瞬間、唐突にテレビが消えた。

「そうた、おいで。もうねないと。」

颯太を探しに来た香織が、リモコンをテーブルに音を立てて置いた。

城戸は急にテレビを消されたことに気分を害したが、香織は何も言わずに、颯太の手を引っ張って寝室に戻った。

城戸は、手元のもう一つのリモコンで、またテレビをつけかけたが、改めて見たいとも思わず、結局、妻の判断に同意するより他はなかった。

さっきのは本当に美涼だったのだろうかと、城戸は振り返ったが、記憶はもう曖昧になっていた。横浜美術館の近くで昼食を共にした時、彼女はカウンター・デモに触れて、確かに、「じゃあ、城戸さんの代わりにわたしが行ってきます。」と言っていた。しかし、城戸は、真に受けてはいなかったし、ほとんど忘れかけていた。

しばらく美涼とは連絡を取っていなかったが、彼女が、自分と交わした約束を密かに実行に移していたことを知って、城戸は驚いた。彼女らしいと感じ、笑顔になったが、彼女の行動自体には、嬉しさとも苦しさともつかない、複雑な心情を抱いた。

彼は、彼女の中で、自分の存在がそれなりの場所を占めていることを喜んだ。決して簡単なことではないはずだった。けれども、その関与を、どうしても手放しで歓迎することの出来ない自分の屈折に溜め息が出た。

城戸は常々、自分の在日への眼差しは、『アンナ・カレーニナ』の中で、リョーヴィンが農民に対して考えていることと大体同じだと思っていた。

「もしもおまえは農民を愛しているかと聞かれたら、リョーヴィンはまったく返答に窮したことだろう。彼は人間一般に対してと同じく、農民のことも愛しかつ憎んでいたのだ。もちろんお人好しの彼は人を憎むよりは愛するほうが多かったから、農民に対しても同じ態度をとった。だが農民を何か特別な存在と見立てて、愛したり憎んだりするようなまねは、彼にはできなかった。なぜなら彼は単に農民とともに暮らし、農民との間に全面的な利害関係を持っているだけではなく、同時に自分自身をも農民の一部と感じていて、自分にも農民にもなんら特殊な長所や欠点を見出そうとはしなかったし、自分を農民の対極におくことはできなかったからである。」

そして城戸は、彼が思想的に親近感を抱く人々が、在日問題に関わろうとする時には、しばしばリョーヴィンが、兄のコズヌィシェフを、「ちょうど田舎生活というものを自分の憎む生活の対極にあるものとして愛し、褒めそやしていたように、農民のことも彼は自分が嫌う階層の人間の対極にある存在として愛していた」と批判するような居心地の悪さを感じるのだった。


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