『マチネの終わりに』第八章(32)
【あらすじ】リチャードと離婚した洋子は二〇一〇年夏、今は蒔野の妻となって妊娠中の早苗に再会した。蒔野と別れる原因となったメールを送ったのは実は早苗だったと知る。2年の活動休止を経て復帰した蒔野は、武知との全国デュオツアーを好評のうちに終えた。
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蒔野は、目を開いて天井を見つめると、視線だけを武知の方に向けた。
「――なんで?」
「いや、この前、元ジュピターの是永さんがコンサートを聴きに来てくれて、僕が《幸福の硬貨》のテーマを弾いたから、その人の話になって。洋子さんだっけ?」
「そう、……今はもう連絡を取ってないけど、どうしてるって?」
「結婚して、ニューヨークにいるみたい。ケンちゃんっていう男の子が一人いるんだって。」
「……子供がいるんだね。」
「みたいだよ。是永さんも、しばらくご無沙汰してるって言ってたけど。蒔ちゃん、一頃会うとよくその洋子さんの話してたから。」
「してたかな?」
「してたよ、いつも。そんな人、いるのかなっていうくらい、褒めちぎってたよ。」
蒔野は、自嘲気味に笑って、営業を終えてひっそりとしているゲーム・コーナーを見るともなしに眺めていた。
「ま、確かにね。なかなかいないよ、ああいう人は。……疎遠になっちゃったけど。」
マッサージ・チェアが終わって静かになると、蒔野は椅子の背を戻して水を飲んだ。
武知は、是永から何かを聞いている様子だったが、あまり話したがらない蒔野を気遣うように話を変えてしまった。
「それにしても、今回のツアーは楽しかったなぁ。もう終わると思うと寂しいね。」
「また、やろうよ。俺も楽しかったし。」
蒔野は、笑顔で同意した。――が、武知はなぜか、すぐには返事をしなかった。
「いや、……実は今日、みんなの前で言おうかどうか迷ってたんだけど、僕は、演奏活動には、これでケジメをつけようと思ってて。」
蒔野は、体ごと武知の方を向いた。
「どういうこと?」
第八章・真相/32=平野啓一郎
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