ある男|21−4|平野啓一郎

城戸は、下を向いて、小さな人差し指で器用にタッチパネルを操作する颯太を見つめた。自分の子供の頃に顔も性格もよく似ていると思った。彼はそのことにやはり喜びを感じていたが、颯太にとっては、将来、苦悩の原因とならぬとも限らなかった。自分は、真っ当に生きなければならないと城戸は思った。そして、この子を譲り渡すという決断を想像して、胸が張り裂けそうになった。

『俺は、それをきっと身悶えして後悔するだろう。谷口大祐のように。──しかし、原誠ではなく、別の誰かだったなら、谷口大祐の続きの人生も、あれほどの幸福には恵まれなかっただろう。……』

彼はグラスの底に残った、もう気の抜けてしまったビールを飲んで、唇を噛み締めた。そして、今のこの人生への愛着を無性に強くした。彼は、自分が原誠として生まれていたとして、この人生を城戸章良という男から譲り受けていたとしたなら、どれほど感動しただろうかと想像した。そんな風に、一瞬毎に赤の他人として、この人生を誰かから譲り受けたかのように新しく生きていけるとしたら。……

「ねえ、おとうさん、まあーだー?」

「おそいなあ。もういっぺん、いってやろう。」

城戸はせわしなく空いたグラスを運んでゆくウェイトレスを呼び止めて、もう一度、急ぐように言った。

そして、ふと、そう言えば、あの時に颯太から尋ねられた、ナルキッソスはどうして水仙の花になってしまったのか、という質問に、結局、まだ答えていなかったことに気がついた。颯太自身も忘れているが、折角だから、今度調べてやろうと携帯にメモをした。

隣のテーブルには、二歳くらいの女の子と生後五ヶ月ほどの男の子を連れた夫婦が座っていて、泣き出した下の子供のために、母親が急いで粉ミルクを作っていた。

「……すみません。」

ぼんやりと見ていた城戸に、父親が申し訳なさそうに頭を下げた。

「いえいえ、全然。」

「泣き出すとなかなか止まらなくて。」

「いやあ、うちの子が小さい時に比べれば、全然おとなしい方ですよ。」

城戸は愉快に笑って、相変わらず、ゲームに夢中になっている颯太に目を遣った。まだ五歳だが、大きくなったなと感じた。里枝の二人目の子供は、この年齢をさえ経験することがなかったのだった。彼女はその死の悲しみを経験している。自分には、とても耐えられないだろうと心底思った。

* * *

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平野 啓一郎

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