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『マチネの終わりに』第八章(33)

 「うちはオヤジが山形の仏壇職人で、兄貴が後を継ぐはずだったんだけど、なんか、色々あって、継がなくなっちゃったんだよね。それで、戻ってきてほしいって前々から言われてて。」

「仏壇職人? へぇ、……あれもすごい世界だろうね。細かいし、そもそも、宗教的なものだし。けど、そんな技術、四十過ぎで身につけられるの?」

「子供の頃から、手伝ったりはしてたんだよ。ギターも好きだけど、あっちも好きだし、本格的にやろうかなと思って。」

 蒔野は、両親が相次いで他界し、実家を手放した時に、仏壇の処置に困ったことを思い出した。結局、捨てはしなかったが、今は自宅の練習部屋のクローゼットに仕舞い込んだままで、もう随分と長い間、扉を開いていない。両親のことを思い出す時には、写真で十分だった。

 音楽家も難儀な時代だが、仏壇職人こそ苦労するんじゃないかと蒔野は思ったが、それは敢えて言わなかった。そして、武知の決断を思いやった。

「兼業でもいいんじゃない? いきなり止めなくても。」

「教室くらいはやってもいいけど、爪も伸ばせないしね。なかなか、思い切れなかったんだけど、最後にこのツアーでいい思いをさせてもらって、踏ん切りがついたんだ。」

 武知は、未練のあるらしい表情で右手の爪を見ながら言った。そして、

「最後に蒔ちゃんと演奏出来て良かったよ。なんか、初めて東京国際コンクールで会った時のこととか、今日は舞台で思い出しちゃって。」

「ああ、あの時だね。」

「祖父江先生が、天才少年がいるっていつも蒔ちゃんのこと話してたよ。中学生なのに、もうソルを全曲弾いてるとか。」

「けど、だって、ソルは作品六十三までしかないんだから。」

「だけど、中学生だよ? いないよ、そんな子なかなか。」

 蒔野は肩を窄めて苦笑した。

「まァ、俺は岡山の田舎の出だからね。……


第八章・真相/33=平野啓一郎 

#マチネの終わりに

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