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『マチネの終わりに』第七章(33)

 蒔野は、ようやく老人介護施設への入居が決まった祖父江が、旧朝香宮邸の庭園美術館で催されているアール・デコ展を見に行きたいというので、介添えをしながら、その話をすることにした。

 祖父江はまだ会話が不自由で、展示を見終わったあとは、美術館の名前の由来にもなっている広々とした庭園を散歩しながら、蒔野が一人で喋り続けた。

「しかし、アール・デコっていうのは、パリで見るとあんなに豪華で色気があるのに、日本に持ってくると、どうしてこう貧相で、ジジ臭いんですかね? ここは相当がんばってる方ですけど。――やっぱり、木を使うせいでしょうか。あと、ステンレスを組み合わせると、また安っぽく見えるなぁ。」

 蒔野がそんな調子で面白おかしく放言するのを、祖父江は、ようやく紅葉の兆しが見えてきた木々をしみじみ眺めて歩きながら、ふん、ふんと目にだけ表情を窺わせて聴いていた。

 四十分ほどかけて池の畔のベンチまで辿り着くと、蒔野は祖父江と一緒に腰を下ろして、しばらく黙って景色に見入った。よく空が晴れ、少し肌寒かったが、風はなく、足許のすすきはそよとも揺れなかった。

 蒔野は、武知と一緒にツアーに出るために、またギターの練習を始めたという話をした。

 祖父江は、ああ、と表情を和らげて、唇を噛んでしまいそうになりながら、それは良かった、とだけ短く言った。

「いやぁ、もう怠けてた分、大変で。今なら先生に習い始めた頃の方が、まだ巧いですよ! 自分の将来にこんなことが待ち構えていようとは、あの頃は夢にも思っていませんでしたけど。……」

 蒔野は、懐かしそうに頭を掻いて笑ったが、ふと振り返ると、祖父江が泣いていて驚いた。麻痺していない顔の右半分だけが震えていて、左半分は無表情のままだった。

 祖父江が、蒔野がギターに指一本触れなくなってしまったことを、どんなに心配しているかは、奏(かな)から何度か耳にしていた。しかし、プレッシャーになってはいけないからと、娘には固く口止めをしているらしかった。


第七章・彼方と傷/33=平野啓一郎

#マチネの終わりに

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