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『マチネの終わりに』第八章(43)

「祖父江先生が倒れた時のこと、覚えてる? 大雨の日で、タクシーの中にケータイを忘れて、わたしが取りに行って。……あの時ね、――」

 蒔野は、思いもかけない妻の告白に、呆然となった。途切れ途切れの内容に、時折疑問を挟んだが、しばらくすると、あの時何が起きていたのか、その全体がようやく把握された。しかも、洋子の体調は、その時、かなり悪かったはずだった。早苗はどうやら、そのことは知らないらしかったが。……

 洋子は、確かに救いを求めていたのだった。そして、自分はそれを、そんな愚にもつかない理由で、拒絶したことになっているのだった。おかしいとは思わなかったのだろうか? しかし、その後、すれ違ったまま続いてしまったやりとりを思い返して、彼はいよいよ堪らない気分になった。

 あまりにも馬鹿げていて、だからこそ一層、その取り返しのつかない過ちが胸に重たく響いた。

 洋子は、どれほど傷ついただろうか? しかし到頭、自分を一度も責めることなく、一方的に切り出された別れを、そのまま受け容れたのだった。蒔野はそして、今度こそ、それは彼女が、自分を愛していたからなのだということを疑わなかった。洋子がそういう人間だということが、彼にはよくわかる気がした。

 洋子の不可解な心変わりだけでなく、早苗の自分に対する献身も、ようやく腑に落ちた。そして、彼女の罪悪感を想像し、その埋め合わせのために、あれほどまでに身を尽くして働き続けていたその姿に同情的になった。精神的、経済的な支えだけでなく、日常生活の何もかもを彼女に負うていた二年半という時間。――それは、否定出来ない事実だった。

 蒔野の脳裏を、洋子の表情がちらついたが、しかし今は、それを掻き消そうとする早苗との二年間の結婚生活の方が鮮明な記憶だった。そして、早苗がどんなに必死でその嘘のメールを書き送ったかを手に取るように想像した。

 騙されていたはずなのに、蒔野は瞬時に、妻を憎むことが出来なかった。それほどまでには、既に深く妻を愛していた。そのことに、皮肉にも彼はこの瞬間、気づかせられたのだった。

「どうして、今になって告白を?」


第八章・真相/43=平野啓一郎 

#マチネの終わりに

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