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『マチネの終わりに』第六章(55)

 洋子は、音楽に、自分に代わって時間を費やしてもらいたくて、iPodをスピーカーに繋いでアルバムを漁った。いつの間にか、蒔野のレコードばかりになっていた中から、彼とは無縁の曲を探して、アンナ・モッフォが歌うラフマニノフのヴォカリーズを再生した。去年、彼女が亡くなったのを機に、またしばらく、この美貌のソプラノ歌手のレコードをよく聴いていた。

 良い選択のような気がした。意味のある歌詞にはとても耐えられなかった。けれども、楽器だけでなく、今は人間の声に寄り添っていてほしかった。

 部屋の明かりは消したままで、彼女は、仰向けに横たわって、東京の西に向かって広がる夜景に顔を向けた。先ほどよりも、少し雨脚は弱まっている。バグダッドにこんな雨が降るはずがないと、彼女はまた自分に言い聞かせた。こんなに湿気があって、夜が明るいはずがなかった。

 美声のヴィブラートが、一本の蝋燭の明かりの揺らめきのように、彼女の存在を灯していた。

 段々と人心地がついてくるようだった。やや唐突に、「人間的な、あまりに人間的な」という言葉が脳裏を過ぎった。

 いつ聴いても、どうしてこんなに胸を打つ声なのかしら。崇高と言うには、確かに艶やかすぎるその声音。――もう、こんな時に自分を慰めてくれるのは、蒔野の音楽ではないのだと、洋子は思った。そうして、気を許すと、すぐにまた彼の記憶へと引き寄せられそうになる。

 自動再生にして、終わるとまた、最初から繰り返した。何度目という数さえ意味を失うほどに、ただ、それがいつまでも終わってほしくなかった。

 洋子の携帯電話が鳴ったのは、深夜、二時半を過ぎた頃だった。短いメールの着信音で、いつの間にか、ラフマニノフも消してしまって、眠りの浅瀬にただ打ち上げられたように横たわっていた。

 すぐに電話に手を伸ばすことが出来ず、バスルームに浴槽の湯を張りに行って、鏡の中の自分と向き合った。


第六章・消失点/55=平野啓一郎 

▲アンナ・モッフォのラフマニノフのヴォカリーズ


#マチネの終わりに

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