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『マチネの終わりに』第六章(44)

 恩師の危篤のために動揺し、他でもなく自分を頼ってきた蒔野の力になりたい一心で、土砂降りの中、「こんな日に仕事で呼び出されるの!?」と友人たちに目を丸くされながら、イタリアンのコースをパスタまでで諦めて、電車に飛び乗ったのだった。自分が二人の恋愛の成就の手助けをすることになるとも知らずに。

 何をしているのだろうと、彼女は自分の人生を顧みた。蒔野のために尽くしたい。――その思いは純粋だったが、彼への愛は、どうやら報われそうになかった。むしろ、その不可能を今、自分の手で確定させようとしていた。

 洋子はつい先ほど日本に着いて、今は成田エクスプレスに乗っているのだという。丁度そんなことを考えていた時、握り締めていた蒔野の携帯電話が短く震えた。

 三谷はそれを、すぐには確かめなかった。新宿駅に到着すると、車両自体が苦しさに耐えかねたかのように、彼女もろとも乗客たちをホームに吐き出した。流されるがままにエスカレーターに乗り、少し気が遠くなるのを感じながらメールを開封した。

 驚いたことに、洋子も今は新宿駅にいて、南口で蒔野を待っているらしかった。連絡を取れないことに、彼女は戸惑っていた。

 一人でいるので当たり前なのに、三谷は、タクシー会社をあとにして以来、一度も口を開いていないことを重たく意識した。歩きながら、息切れして鼻から吐き出す息の熱を感じ、こめかみや首筋に垂れてくる汗を、何度となくハンカチで押さえた。

 足は勝手に南口に向いていた。そして、改札の手前まで来ると、何年経っても工事が終わらぬ甲州街道の出口付近で、独り不安げに雨空を見上げている洋子の姿を認めた。

 革のベルトのついた、赤い大きなグローブトロッターのスーツケースを携えていた。三谷は、この誰が持っても目立ち過ぎる、グレーハウンドでも散歩させているようなスーツケースが、こんなに自然に嫌味なく似合っている人を、生まれて初めて目にした。

 蒔野が言うほどの美人だっただろうかと、あれからよく、たった一度しか会っていない洋子の記憶を引っ張り出しては首を傾げていたが、新宿駅の雑踏の中で、大きな柱の脇にすっと一人佇む洋子には、通行人が、前を過ぎ様につと視線を向けずにはいられないような存在感があった。三谷自身、探すべきかどうかと迷う間もなく、洋子を見つけてしまった。


第六章・消失点/44=平野啓一郎

#マチネの終わりに


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