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「言葉」と「音」

歌だ。詩だ。言葉だ。ナンだ。
と、
常々言っていますが、
言葉のせいで
大きく羽ばたいていけない。
自由自在に変化できない。
活動の幅が拡がらない。
ホンモノの音楽ではない!

なんて
極端に想っちゃったりもします。

先日、生花する方と、
音楽と生花のライブセッションの企画
の話がありました。

満月の海の見える森で。

これにはだいぶテンション上がり、
まだ確定でもないのに、
「もっと音に生きなきゃなぁ。
瞬間で鳴らすべき音をとらえて、
意図的に、
言語を操るくらいには
音を操れるようにならなきゃなぁ。
しっかり楽器触ろう。
そういや最近、
慣れた歌の伴奏にばかり
ウクレレの演奏を使ってたなぁ・・・」

なんて。

ウクレレの音、和音、メロディに
またあらためて親しもう
なんて想ったら、
また楽しいね。

でも、
以前一生懸命
楽譜の勉強も兼ねつつ練習した
クラシックの曲たちの弾き方忘れてる・・・。

エリック・サティのジムノペディなんて、
ウクレレの音に即した即興演奏では
なかなか思いつかない
音の選び方。

おかしな和音とメロディなのに美しい。

楽しいな♪

どこを弾けばどんな音が鳴るか。

その経験値を増やすことが、
慣れ親しむってことなんだよね。

この音を鳴らすと
あの曲を想い出す。
この音を鳴らすと、
あの曲を、
あんな場所で、
あんな季節に奏でたな。

音楽に特化したわけじゃなくて、
「あ、この匂い・・・
夏の匂いだ!」とか、
この匂いで日本を想い出す。とか、
楽しかったインドを想い出すとか、
韓国想い出す。とか。

そんな感じで、
また最近、
夜明けも早くなってきたので
早朝家を抜け出しては、
あちこちでウクレレスケッチしてます。

去年の今頃、
親の介護や、子どものめんどう、
流行りの自主規制で
早朝が本当に自由時間だったな・・・

なんて匂いを想い出しつつ。

*************

そんな感じで
昨日の朝は、
こんな池にたどり着きました。

けっきょく、
最初に即興でウクレレを奏でた後、
歌いたい、蘇らせたい詩が現れて、
その後、2曲、
歌ってしまいました。

演って想ったのは、
やっぱり
「音」になることと、
「詩」になることの違い。

「音」というのは
あるがまま。

何にでもなれるし、
何でもない。

風が吹く音と違うのは
その音を意図的に、
人の身体で生み出していること。

でもそこに意味はない。

右足を出せば、
次に左足が出る。

逆に言えばそれが理想。

慣れ親しんでいないと
右足の次に
また右足出しちゃったりするからね(笑)。

そこに詩を入れる。
今この瞬間を模写するような
「即興の詩」ではない。
(本当にそんなもの存在出来るのか?
結局何かの引用の貼り合わせだろ?
なんて、最近の僕は想う。
だからこそあえて、現実を固定するような
名詞バリバリの詩が歌いたかった)

受験生の詩。

なぜ早朝の大自然の中で今?
小鳥のさえずりの中で今?
30年ほど前の氣持ちを今?

歌いながら、
自由になれるのに
不自由を選んでいる自分を想った。

こんな氣持ち、
今の若者が感じなくてもいい。
と想った。

本当は確かでもない現実を
確かのものと見せかけて、
「そういうものですよ」と、
あたかも最初から在るように
名前をつけて固定化させる言葉たち。

「進路希望」
「受験」
「夢」
「やりたいこと
「原発」・・・。

こんな悩み、
今の若者も持つのだろうか?

進化しろよ人類!
と想う。

想いながら歌う。

ただ、
昔の若者は
こんなことに悩んでいたんだよ。

くだらないけど
一生懸命だったんだ。

歌わないと
在ったことも
忘れちゃうからさ。

せっかく在った
人生の味わいだからさ、
歌えるうちは
歌っておきたいんだ。

世界の片隅で、
踊り狂う小さな命。
祈り叫ぶ小さな命。

在った。

在ったから

記しておきたい。

たぶん即興演奏は
うまく在るほど、
在ったか無かったかも
判別できない存在になるのかな?

だから、
まぁ、
そうやって抽象的な芸術する人は、
題名付けたり、
コンセプトを解説したり、
アカデミックな権威を借りたり。

結局は
固有の名詞を借りて、
舞台を創ってる、
演出してるんだよね(笑)。

何にも言わなくていいのに、
こうしてnoteにつらつらと
書いてしまう僕でした(笑)


うたが、音が、言葉が、 もし心に響いてくれたなら サポートいただけたら嬉しいです。