Melon with Foul Goats -放談NURSE WITH WOUNDとUnited Dairies- 配布冊子

 12/2の心斎橋・複眼ギャラリーで行なわれたイベントは無事終了しました。当初の予想より多くの方に来場いただき大感謝です。入場時に配った冊子の数が足りず受け取れなかった方がいたほか、当日来れなかったので内容を読みたいという声もいくつかいただきました。
これに伴い、一部の写真を除いて以下に転載しました。誤字脱字・名詞の表記揺れなどが確認できたため、該当する箇所は修正しました。


 Nurse With Wound(以下NWW)が音楽の世界に現れた79年は、 タイミングとして最高だった。Steven Stapletonとその友人たちが意図していなくても、ポストパンクと呼ばれるムーヴメントはその年に絶頂を迎えていたのだ。NWWのような音楽及びアートワーク、見 るものをたじろがせ、時に首をかしげさせるそれらも、パンクによってこじ開けられた穴を通って、メディアに飛び乗れた時代だった。 同時代でそれを象徴するのが米国西海岸を代表するThe Residentsだろう。彼らが79年に出した『Eskimo』の売り上げは全世界 で10万枚である。 Do It Yourselfの体現者たちが雑草のように生い茂ったポストパン ク時代の中でもNWWは数奇な存在に見える。レコードには主張らしきメッセージは込められておらず、まれに添えられている文章は「なるべく小さな音で再生せよ」、「このLSDを聴け」など、先人のパロディばかり。そのうえ、音楽を捧げる相手の名前だけは律儀に記してあるものだから、その真意を読み取るのは容易ではない。
同じ時代のアーティストやグループが失速あるいは方向転換(同属とされていたインダストリアル・ミュージックだけ見ても、商業主義をターゲットにした者は数知れない)していく中、NWWは劇的な変化を見せないままマイペースに活動を続け、驚くべきことに今日までそれは保たれている。

 「誰も気に留めない場所こそ、創作に最もふさわしい環境である」。
作曲家であり思想家とも言えるMorton Feldmanが残したこの言葉を、Stapletonは忠実に実践している。彼は80年代末にアイルランド西部の奥地に移住し、多くの制約と束縛から解き放たれた。そこでは建築から野菜の栽培、動物のフンの処理まで創作と等価になった。 既に彼はKurt SchwittersやSalvador Dalíと同じ席に座っている。
NWWのデビューアルバムが出ると同時に出来たUnited Dairiesは、ポスト・インダストリアル・ミュージックと呼ばれる潮流の中でも重要かつ(同時期の他レーベルと比べて)牢固たる存在になっていく。その名が英国にかつて存在した酪農業社からとったのは有名だが、その発端は「ミルク」の語を含むお気に入りのバンドが脳裏 をよぎったからである。それはHenry Cowであったり、Milk From Cheltenhamであったりと、話す者によって食い違いが生じている。
 UDはパンク以降の新興レーベルらしく、勢いで作られたまま試行錯誤を繰り返し、メンバーも分裂していった末にStapleton個人のものとなった。
自分が崇拝する伝説のジャーマン・ロックレーベルOhr、 またはフランスのFuturaのようにしたかったとStapleton本人は語る。 しかし、移住もあってインディ・レーベルとしてのUDは10年で停止するのであった。そして新たな物語が始まる。

友好のこと

 NWWおよびUDがノイズやインダストリアルにカテゴライズされることを決定づけたのはWhitehouseやCurrent 93らとの交誼であろう。前者とのスプリット・アルバムや、Come Organisation からのレコードにStapletonはいくつかのアートワークを提供している。WhitehouseやNWWのレコードをかねてから愛聴していたDavid TibetはCurrent 93のファースト・アルバムに Stapletonを招き、それ以降長きに渡って音響面で彼を頼った。
両者は互いが録音に参加し、同時に同名のアルバムを作るなど、 兄弟あるいは分身のような存在として認知されていく。


アルバム『Thunder Perfect Mind』


 実際に彼らはファミリーと呼べるほどの輪を形成していた。互いの録音・セッションへ参加するだけにとどまらず、最終的には作品の供給面も自分たちでコントロールしようと試みた。ポストパンク 時代に花開いた(そしてほぼ全てが短命だった)DIYとビジネス の共存を90年代に入ってから始めたことは、共通の背景も有して いたレイヴ~テクノに隠れこそしたが見過ごせない潮流の一つだ。
 ワールド・サーペント・ディストリビューションと名付けられたそれは10年と少しの間に及んで機能し、NWWやCurrent 93、Coil、 Death In Juneらファミリーの音楽を世界中へと拡散していた。 そこにはAnthony Hegaty(現ANOHNI)や、日本は静岡のMagick Lantern Cycleも名を連ねている。 
サーペントの停止後、NWWは自主リリースに加えて、いくつかのレーベルから音源を発表している。個々のカタログ番号には頭にUnitedの文字が加えられ、United Dairiesがまだ終わっていないことを示している。

 United Dairies以外からも多く作品をリリースしているため、以下にその一例を記す。()内の数字は設立年。

 L.A.Y.L.A.H. Antirecords (83) 
ベルギーのLes Disques du Crepuscule傘下に作られたレーベル。 設立者はDavid Tibetの友人だったMarc Monin(失踪中)。 Current 93周辺のグループを多くリリースしたが約5年で消滅。 LaibachやOrganum、23 Skidooなども抱えていた。

Third Mind (83)
Gary Levermoreによるレーベル。最初のリリースはKonstruktivits で、アートワークはSteveが担当した。NWWは過去音源の再録である『Ostranenie 1913』をリリース。

Augenblick (88)
レーベルというよりは、80年代後半に渋谷で営業していたレコード店・Supernatural Organisationが発行していたファ ンジン。NWWとCurrent 93のスプリット7インチを付録にした号が存在している。オーナーはCurrent 93やDeath in June、Sonic Youth、Pussy Galoreを初めて(唯一)日本に招くも、90年頃に消滅。

Clawfist (90)
レコード店Vynyl Experienceのスタッフが独立後に立ち上げた店舗の一つ、Vynyl Solution内に作られたレーベル。StereolabとNWW の10インチ、Galon Drunk、Bevis Frondなどの音源をリリースするが、後にIntoxicaによる吸収に伴い消滅する。

Beta-lactam Ring (2000)
 ポートランドのレーベルで早い段階からデータ販売も行なっていた。 NWW以外にはThe Legendary Pink Dotsや、Steveの義理の息子であるPeat BogのEarthmonkeyもリリース。

 Rotorelief (2005)
 Cristoph Louisによる小規模なレーベルで、フランスのエクスペリメンタル・ミュージックの復刻を主としている。NWWやクラウトロック・グループSandの復刻にも取り組んでおり、豪華な装丁が特徴。
元々はCoilの限定的なアイテムをリリース第一弾とする予定だった が、John Balanceの逝去によって企画は消滅した。その代わりとなったのが、トリビュート・アルバム『Coilectif - In Memory Ov John Balance And Homage To Coil』である。

本日話す以外のこと

 『Chance Meeting』はリハーサルもないまま行なわれたジャムから出来上がったアルバムだった。偶然から48トラックレコーダーを有する高価なスタジオで録音できることになったSteveたちは、自分たちのデタラメな音がミキサーによって一つに結合されていく様を目撃・体験した。
この瞬間からStapletonは「音はクリアであるべき」と考えるようになる。この見解はトランジスタラジオが似合 うように録音されたパンク・ロックとは対極にあるもので、それはポストパンク期を象徴するテーゼの一つ(スタジオこそ革新的な楽器とみなす)とリンクする。
 3枚のアルバム制作を経て、ステイプルトンの技術が最初のピークを迎えたのはシェフィールドにあるIPSという小さなスタジオ をブッキングするようになってからだった。平日にデザイナーと して働いていた彼は、毎週金曜日の夜にスタジオへ通い、一人で黙々と卓を触っていたという。友人たちを招いて録音をすることもあったが、ステイプルトンは事前にどのような音が欲しいかを告げることはなかった。これはシュルレアリズムの詩人たちの間 で生まれたメソッド(よく「優美な屍骸」と呼ばれる)と共通する。

 IPSスタジオはWhitehouseのWiliam Bennettを通して知ったもので、Come orgの音源の多くはここで録音された。今日ではもう存在しないが、ネット上に設備などの記録は残されている。
Steveは基本的にシーケンサー、シンセサイザーの類を使用しない。 自身のデビューと同時期に増え始めた、EMSによるパワー・エレクトロニクスに対しても、ごく一部を除いて真っ向から否定するほどだ。 リズミックな『Thunder Perfect Mind』のようなアルバムは、そのマテリアル自体はColin Potterによるシンセサイザー経由の電子音であったが、ループは全てテープの切り貼りによる手作業(Kraftwerkの「Trans Europa Express」を思わせる)、ミックスもコンピュータを介さずに行なわれた。
 Stapletonは繰り返し「シンセティックなものは嫌いだ」と主張する。Soft CellやDepeche Modeは嫌い、The Residentsも『Eskimo』までがいい、といった具合だ。デジタル・レコーディングの時代にも逆らい続けるNWWの音楽には、相応のエンジニアやカッティングが必要だったが、前述のIPSスタジオや、Denis Blackhamという稀代の職人に恵まれたおかげで、NWWは来たるべきCD時代にも乗り遅れることはなかった(プレス工場によるCDのブロンズ化問題を除いては、だが)。

デザインのこと

 Stapletonは音楽よりも先に美術方面でキャリアを構築していた。デザイン事務所に勤務していた彼は、建物の塗装から立体オブジェの制作、噂では貴族の庭の手入れまで行なったいたという。 幼い頃から自室の壁に絵を描いては、それを消して、また描いていく一時が彼の進路を少しずつ作っていったと言える。 有名な仕事がRock In Opposition第一回のポスターで、これにはちゃんとSteveのサインが添えてある。公に名前が た最初の仕事ものなのだそうだ。このポスターは後にEtron Fou LeloublanのRIO初回ライヴ音源再発(『Live at Rock in Opposition Fes』2015)時にアートワークへと流用された。


 ファンジンへの寄稿も、ごくわずかだが確認されている。『AURA Magazine』と呼ばれる雑誌がそれで、StapletonはドイツのPilzレーベル や、Alcatrazといったジャーマン・ロックバンドを紹介している。 記事にはコラージュも添えられており、今見返しても彼の仕事と容易に確認できる。

続々・今日話すこと以外のこと
 Nurse With Woundはいつから大御所、クラシックとして認識されるようになったのだろう。日本では70年代末の『ロック・マガジン』や、 阿木譲氏編集の『EGO』に評が載り、『銀星倶楽部』ノイズ特集号(87)にはインタビューが収録された。そこから大きく間を空けて、『電子雑音』最終号(2010年)にはUnited Dairiesのカタログとともに大量のディスコグラフィが掲載された。恐らくはそれが最後である。 
 私が最初にNWWを目にしたのは某社から出ていたUKニューウェイヴ・ディスクガイドを名乗る書籍であった。その中でNWWの『Chance Meeting』がThrobbing GristleとNocturnal Emissions に挟まれる形で掲載されていた。ノイズ・インダストリアルのカテ ゴリで最もジャケットが美しく見えたことを覚えている(その他ほとんどが味気なさすぎるのも大きかったが)。
しかし、肝心の音源は既に手に入りにくくなっており、実際に確かめるのはyoutubeというのが現実だった。本格的に中古盤を集め出したのは2008年ごろ(1ドル80円ほどで大変買い物しやすかった記憶がある)で、ちょうどNWW側も再発を活発に行ない始めた時期だった。
決定打は2012年から始まったiTunes StoreやBandcamp上でのデータ配信、そしてストリーミングだろう。これにより、半信半疑だったyoutube(アップされているそれが、本当にそのアルバムであるかの保証はなかったのだ)で我慢することもほぼなくなった。
 Sunn O))) やJim O'Rourkeら後の世代との合流もあって、NWWをノイズやインダストリアルの一語で消費する時代は終わりつつある。時間はかかるかもしれないが、現在のリスナーたちによってNWWは正当に評価されていくだろう。

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