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意識と美|エンターテイメント

おつかれさまです。
赤ちゃんや動物、大昔の言葉がまだあまり発達していない時代(日本では縄文ころ)、映像であればメタバースのアバターのイメージが理解しやすいと思いますが、わたしたちに意識がうまれるたときから、まず根底に世界(自分)が『ただ在ります』

ひとや生き物すべてがただの何者でもない、抽象的な『ただ在る』
(具体例)映像(視覚)や音(聴覚)、触覚など。

そこから、後付けでさらなる具体化が進み、身体に共通認識の「名前」がつけられ、性質(特徴や才能、好み)があらわれ、成長の過程でアイデンティティ、価値観が加わり「わたし」という個人的で具体的な世界が少しづつ創られていきます。

その世界観はひと特有の『愉しみ』であり芸術美、悪いことでは全くない『遊び』のはずなのですが、いつの間にかそれが「自分のすべて」になりそこに支配され、比較という概念がうまれ、抽象度の高い『生命そのものの感度(≒豊かさ)』が、圧倒的に完全に後回し(おざなり)になっています。

この事実は、難しいことではなく頭でも理解できるほどに当たり前のことで、自然の理です(きっぱり)🐥

現代はいまここの生命を吹っ飛ばし「アイデンティティ」「価値観」=自分だとという認識(錯覚)で生きているひとがほとんどです。

何かを「認識」しなければそこは生命の喜びであふれています。言語の発明から生まれた、頭の中の物語も人間特有の愉しみであり、決して悪いことではないのですが、それが「完全にすべて」になっていると、その幻想に支配され本末転倒になっていることに、わたしたちは本当に面白いほどに、なかなか気づけません。

「地に足をつける」とは、生命そのものにただ在ることを思い出すこと


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