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【歴史小説】『法隆寺燃ゆ』 第二章「槻の木の下で」 中編 8

「時に、中臣連、鹿島はどうであった? 面白かったか?」

 事の仔細が終わると、話はがらりと変わって、鎌子の鹿島での生活のこととなった。

 その頃には、3人の前に酒の支度ができていた。

「はい……、いえ、特に面白いほどのものはありませんでした」

「そうか、東国には、いい女はいなかったのか?」

「えっ、いや……、私は、そちらの方はとんと……」

「嘘を申せ、難波津には、馴染みの女がいたそうじゃないか」

 そう言えば、もう数年も会っていない。

「いえ、いえ、ご冗談を」

 鎌子は平伏した。

「そう言えば、中臣殿は、未だおひとりですか?」

 麻呂が、2人の間に割って入った。

 以前、麻呂の娘の遠智娘と縁談話もあったのだが、彼女は、いまでは鎌子の目の前に座す御仁の妻であった。

 麻呂は、それを申し訳なく思っているようだ。

「いえ、妻はひとり」

 鎌子は、車持国子君(くるまもちのくにこのきみ)の娘 —— 与志古娘(よしこのいらつめ)を妻に迎えていた。

「なんだ、まだ妻は一人なのか? お前ぐらいの家柄なら、妻が何人いても問題はないだろう」

「はっ、まあ……」

 葛城皇子は、鎌子と遠智娘の経緯を知っているのだろうか。

「失礼いたします」

 その時、鎌子の耳に聞き覚えのある声が聞こえ、戸が静かに開いた。

 遠智娘だ!

 あの頃と変わらず美しい。

 いや、ますます美しくなっている。

 人妻とは、こんなに美しいものか………………

 鎌子は、高値の花を、なお諦め切れなかった。

 遠智娘は顔を上げた。

 その瞬間、鎌子とまともに目がぶつかった。

 彼女も何事か思ったらしい。

 その美しい眉が、僅かに動いたのを鎌子は見過さなかった。

「遠智か、何のようだ?」

 葛城皇子はぶっきらぼうに訊いた。

「はい、夜のお支度ができましたが……」

 遠智娘の声は小さい。

 鎌子に聞かれまいとしている。

「分かった、いま行く」

 葛城皇子はそう言うと立ち上がった。

「どうだ、中臣連、蘇我倉殿の娘の遠智だ、美しいだろ」

「はい、真に」

 鎌子は、まともに遠智娘の顔を見ることができない。

 遠智娘も俯いている。

「では、行くか」

 葛城皇子は遠智娘を促し、部屋を出ようとした。

「そうだ、中臣連。お前に、安見兒(やすみこ)をやろう。遠智に比べると劣るが、これもなかなかの女だぞ」

「はあ? はあ……」

 葛城皇子は、そのまま出て行った。

 鎌子は遠智娘と目があった。

 しかし、気付いた彼女は目を伏せて、葛城皇子の後に付いて行った。

 その後、部屋に残された鎌子と麻呂は、黙って酒を飲み続けた。

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