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【歴史小説】『法隆寺燃ゆ』 第四章「白村江は朱に染まる」 前編 12

 朴市秦田来津が、百済援軍兼余豊璋王子の護衛軍将軍として勅命を受けたという知らせは、朴市一帯に広まるのに1日と掛からなかった。

 これを聞いた住民たちは、自分も援軍の兵に入れてくださいと田来津の屋敷に長い行列を作った。

 が、当の本人は、未だにその勅命に従うべきかどうか迷っていた。

 自分の意志で飛鳥から退いた自分が、再び飛鳥に呼ばれることが不思議であったし、特に中臣鎌子の推薦というのも納得がいかなかった。

 鎌子と言えば、古人皇子事件であたふたしているところしか思い出さなかったし、彼も策略好きの中央官人の一人だと思っていたので、今回の勅命も何かの謀略の一端のような気がして、とても素直に受ける気にはなれなかったのである。

 かと言って、絶対いやかと言うとそうでもなく、心の中では、もう一度、中央で働いてみても良いかもしれないという未練があることも確かであった。

 そんな男の苦しい心持も、長年連れ添った妻なら分かるのか、安孫子郎女は、夫がいつ飛鳥に旅立ってもいいようにと、早くから準備をしていた。

「安孫子、そんなに急いで準備をする必要もないよ。まだ、正式に引き受けると返事をした訳ではないのだし」

 油皿に明かりを灯しながら、新しい軍装を繕う彼女を見ていた田来津は言った。

「あっ、そうなのですか。すみません、私ったら……」

 と、彼女も言うのだが、忙しく動かす手を休めようとはしなかった。

 田来津も、妻の手を、ただ黙って見ているのであった。

「あなた、襟のところに私の領巾を縫い付けておきますから。そのむかし、葦原醜男(あしはらのしこお)が愛する須勢理毘売(すせりひめ)からもらった領巾で難を逃れたと云いますから。あなたも私の領巾を持っていらっしゃれば、無事にお役目を果たされますわ」

 彼女は、そのとおり襟元に領巾を縫い付けていった。

「そうか、ありがとう……」

 田来津は、ただそう答えるしかない。

「なあ、安孫子、私は……」

「あなた、将軍のお話、お受けください。大王自らのご命令なのですよ。名誉なことではないですか」

 彼女は手元を休め、田来津の顔を見た。

 油皿の光は、彼女の手元を照らすばかりで、肝心の彼女の顔が見えない。

「お前、俺が百済に行ってもいいのか? もしかしたら、帰って来られないかも知れないのだぞ」

「だから、こうやって領巾を縫い付けているのです。それに、もしかして、私や小倉のことが心配でしたら、そんな気遣いは止めて下さい。ここに戻ってからのあなたの目は、何だか寂しそうでした。確かに、あなたの傍を離れるのは辛いけれど、寂しそうなあなたを見るのは、もっと辛いのです。あなたの力は、弱い人たちのためにあるのでしょう。だったら、その力を百済の人々のために使ってもいいはずです」

 確かに、田来津には満たされぬ思いがあった。

 領民の生活を守ってやることは、自分の信条には反していない。

 しかし、そこに心を強く突き動かすものがない。

 ―― 俺の力は、こんなところで終わるのだろうか?

    もっと別の使い道があるのではないか?

    もしかしたら、百済援軍がそうなのかもしれない………………

 彼がそう思っていたのも間違いはなかった。

「小倉も分かってくれますわ。あの子は、賢い子ですもの。それに、私は信じていますから、あなたが、きっとお戻りになることを。きっと……」

 最後は言葉にならなかった。

 田来津は、彼女の肩をそっと抱いてやった。

 いまの彼には、それしかできなかった。

 安孫子も、夫の無事を祈ることしかできなかった。

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