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【歴史小説】『法隆寺燃ゆ』 第二章「槻の木の下で」 中編 10

「父上、父上!」

 大きな声が甘檮丘の屋敷に響き渡る。

 蘇我蝦夷は、その声で目を覚ました。

「父上、入りますぞ」

 寝室に入って来たのは、蝦夷の次男 —— 蘇我敏傍である。

「敏傍か、相変わらず声が大きいな」

「はははっ、これだけが取柄ですから。時に、お体の具合は如何ですか?」

 敏傍は、床に伏せている蝦夷の前に座した。

「別段、良くも悪くもない」

「それは何より……、と言うべきですかな? 兄上は?」

 敏傍は、周囲を見回した。

「あやつなら、部屋に籠もっておる」

「またですか?」

 敏傍は呆れ顔だ。

「全く、あの件以来、ヤツはワシとまともに口を利こうともせん。ああやって一日中、部屋に籠もって漢籍をひっくり返しておる。宮内の評判も良くないのであろう?」

「えっ?、は、はあ……、あまり……、まあ、兄上は口数が多い方ではないのですが、最近は、それに輪を掛けたように……。宮内のお歴々との意思疎通もあまりできていないようで」

「何を考えているのやら……」

 蝦夷は立ち上がり、ゆっくりと戸を開けた。

 冷たい空気が流れ込んでく。

「何を考えているのやらと言えば、この屋敷も何を考えているのやらですよ。なんで、こんな丘の上に屋敷を建てたのやら。お陰で、こちらは屋敷に赴くだけで一苦労ですよ」

「そうでもないぞ、見てみろ」

 蝦夷は外を指差した。

 敏傍は、その指先を見る。

「ここからの眺めは気持ちが良いわい。酒を飲みながらの春の景色は、さぞ見ものであろう」

 敏傍は、まさかそんな理由だけで……と思った。

 上宮王家が襲撃されたすぐ後に、蘇我入鹿は屋敷を豊浦から甘檮丘に移した。

 ここであれば、飛鳥全体が見渡せ、重臣たちとやり合う時に、良い砦となると考えたからである。

 入鹿は、上宮王家の一件で、改めて重臣たちの権力に対する執着心を目の当たりにしていた。

 己の利権のためには、人の命など気にも掛けない連中 —— そんな連中と、これからともに仕事をし、そして、改革を実行していく。

 そこには、予想以上の困難が持ちうけていることには間違いなかった。
当初、彼は緩やかな改革を期待していた。

 彼の理想から言えば、豪族たちが気付かないうちに解体する方法を取ろうとしていた。

 しかし、気付いた時には、こちらの勢力が削り取られていた。

 彼らに、生半可な方法は通じない。

 最悪の場合には、武力を持て飛鳥を押さえることも視野に入れ始めたのである。

 彼は焦っていた。

 —— もう、時間がないのだと。

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