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【歴史小説】『法隆寺燃ゆ』 第三章「皇女たちの憂鬱」 前編 10

 それから彼女は、ただ魂を抜かれた人形に………………、寝台に横たわるだけの毎日を送った。

 夢と現の境目が分からず、薄暗い部屋の中では夜と昼の違うも分からず、生きているか、それとも死んでいるのか、それさえも分からなくなった。

 ただ侍女が、彼女の気分を紛らわすためと寝台の横に活ける花だけは、宝皇女の瞳には色鮮やかに写り、その艶やかさがあまりにも眩しくて、自分の境遇と比べると何とも憎たらしく、このまま握りつぶしてやりたかった。

 そう、全ては終わったのだ………………

 あの人との全て終わったのだ………………

 この寝室にいたあの人の面影も、匂いも、想いも………………

 ―― あの人に係わった全てが辛い

 ―― あの人の想いの全てが辛い

 あの人と愛したこの寝台も、あの人と未来を語ったこの部屋も、あなたと夢を見たあの庭も、そして、あなたを呼び寄せた花も………………

 もう私には必要のないもの ―― いっそ庭の花々も潰してしまおう………………そうすれば、私自身も終わる………………あの人との思い出は全部………………

 彼女は、花弁に手を伸ばす。

 橘 ―― 震える手の中に、それはまだ可憐に、そしてただ凛として、己の命を咲かせている。

『また、この香りに誘われて、降りて来てもよろしいですか? 橘の君』

 彼女の脳裏には、二人が出会った時の橘の姿、香り、温度の全てが蘇った。

 ―― 嘘だ!

 こんなに美しい橘を、霍公鳥は放って置くはずがない!

 私を迎いに来てくれないのは、橘の花が小さすぎて、その香があまりにも微かすぎて、霍公鳥が迷っているからでは?

 ―― そうだ、迷っているのよ!

 霍公鳥は迷っている、この屋敷までの道のりを忘れて、何処かで傷ついた羽を休めている。

 ―― そうだ、傷ついているのは私ではない!

    傷ついているのは、あの人の方なのだ………………

 ならば、霍公鳥が戻ってくるために、この屋敷を橘でいっぱいにしよう。

 あの人が戻ってきて、傷ついた翼を癒せるように、色鮮やかな花々を、たくさん植えよう。

 あの人のために………………・

 いえ、この庭だけでなく、飛鳥中が花で満たされたら…………………飛鳥中に橘を植えれば、きっと霍公鳥は戻ってくる!

『私が大王になったなら、この飛鳥に、大陸に負けないほどの都を築きましょう………………そして、あなたのために、その都にたくさんの草花を植えるのです』

 ならば、その夢を私が叶えれば、あの人は私の下に戻ってきてくれる!

 そうだ、そうしよう!

 巨大な都を築き、その都を橘で一杯にしよう!

 迷える霍公鳥のために!

 傷ついた霍公鳥のために!

 私は、どんなことでもする、あの人を取り戻すために ―― 私の全てを取り戻すために!

 宝皇女は、重たい体を起こし、侍女を呼んだ。

 容態を心配する侍女を無視して、彼女は掠れる声で、だが力強く言った。

「父上様に……、茅渟王に伝えなさい、宝は田村皇子の願い出を受け入れますと」

「よ、宜しいのですか?」

 驚く侍女を脇目に、宝皇女は橘を見つめながら呟いた。

「全ては、あの人のために……」

 ―― この瞬間、彼女の狂気じみた人生が始まる。

 舒明(じょめい)天皇の治世2(630)年正月12日、宝皇女は田村大王の大后として立つ。

 田村皇子の欲望や茅渟王の野心、母の心配、そして愛よりも身分を選んだと陰口をたてる侍女たちをよそに、彼女は、あの人を、そして自分自身を取り戻すために。

 ―― 宝皇女、37歳の時のことである。

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