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【歴史小説】『法隆寺燃ゆ』 第五章「法隆寺燃ゆ」 前編 9

 大殿の帰り際、大海人皇子は顎を撫でながら、一人にやにやと笑っていた。

 しばらくは回ってこないだろうと思っていた大王の位が、こんなにも早く目の前に見えてきたからだ。

 活発で頭脳明晰であった兄と違って、彼は小さい頃からのんびり屋で、始終ぼんやりとしていることが多かった。

 そのため、中大兄は父 ―― 田村皇子(たむらのみこ)の期待を一身に受け、将来の大王候補としての教育を受けたが、大海人皇子には左程の期待も掛っていなかった。

 だが、これはあくまで周囲の目であって、大海人皇子は心の中で虎視眈々と大王の地位を狙っていたのである。

 大海人皇子は、中大兄のことを恐れていた。

 小さい頃つかみ合いの喧嘩になったことがあったが、この時中大兄は本気で大海人皇子の首を絞めようとした。

 子供の喧嘩と言えばそれまでだが、彼はこの時、兄は怒らせたら何をするか分からないと感じ、それ以降、ただひたすら兄の後ろに隠れて目立たないように幼少を送ったのである。

 彼が暢気に見えるのは、兄と無益な衝突を避けるための手段であり、彼が終始ぼんやりしていたのは、学問や武術では兄に勝てないと見せかけるための演技であったのだ。

 その実、彼は人が見ていないところで一生懸命努力をしていたのである。
兄を騙し続けるのは、その後幾年に渡って続いた。

 だが、そんな彼に転機が訪れる。

 中大兄が額田姫王を譲って欲しいと言ってきたのだ。

 併せて、十市皇女(とおちのひめみこ)を大友皇子(おおとものみこ)と娶わせて欲しいとも伝えてきた。

彼は、すぐさまその話に飛びついた。

 ―― これは好機である!

 兄の下に、気心の知れた女が入り込めば、兄の動向を探ることができる。

 加えて、娘が大友皇子の妻になれば、間違って大友皇子が大王になったとしても、後見人として後ろから政界を牛耳りことが可能である。

 だが、彼は一旦この話を断った ―― 兄の譲歩を待ったのである。

 ―― 焦らせれば、兄は必ず他の条件を付けてくる………………

 大海人皇子の予想どおり、中大兄は大田皇女(おおたのひめみこ)と菟野讃良皇女(うののさららのひめみこ)の二人の娘を妻に与える条件を出してきたのだ。

 これも、大海人皇子にして見れば願ったり叶ったりだ。

 こうして、姉妹と親子の交換は行われたのだった。

 大海人皇子は考えていた。

 冠位改正事業は大きな仕事である。

 これに成功すれば未来は明るいが、失敗すれば先行きはない。

 ここは、何としてでも成功させる必要があるのだが、兄の邪魔が入っては本も子もなくなる。

 誰か実力者を一人、味方につけるのが良いのだが、そんな人物がいるだろうか?

 中大兄の息の掛かっていない、宮中の実力者が?

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