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【歴史小説】『法隆寺燃ゆ』 第四章「白村江は朱に染まる」 前編 2

 安孫子郎女の夫で、小倉の父である朴市秦田来津造(えちのはたのたくつのみやつこ)は、良民たちが高倉に稲束を運び込むのを見守っていた。

「今年は、稲の育ちが良いようだな」

 田来津は村首(むらのおびと)に言った。

「お陰様を持ちまして、今年は豊作でございました。これも、秦様のお陰でございます」

 村首は深く頭を下げる。

「いや、豊作なのは神の恵みだ。それに、お前たちが汗水流して働いてくれたからだよ」

「勿体ないお言葉でございます」

「それでは、私はこの辺りを廻って帰るから、後は頼むぞ」

 田来津はそう言うと、従者の高尾深草(たかおのふかくさ)を連れて、馬を走らせた。

「秦様は、もう帰られたのですか?」

 1人の良民が、村首に聞いた。

「ああ、如何した?」

「いえね、蚕の様子も見てもらおうかと思ったのですが……」

「なに、また明日もいらっしゃるよ。そう、急ぐこともあるまい」

「そうですね。しかし、秦様も毎日毎日ご苦労ですね。見回りなら、下の者にやれせれば良いのに」

「真面目な方だからな。下任せにするのは嫌いなのだろう」

「しかし、なんでそんな真面目な方が、飛鳥の役職を全て捨てて戻って来られたのでしょうね?」

「さあな。でも、秦様が戻られたお陰で、こちらは助かっているのだから良いではないか」

「そうですね。そうだ、村首、ちょっと蚕の様子を見てくださいよ」

「どれ」

 2人は、そんなことを話しながら、蚕小屋に入って行った。

 朴市秦田来津は、その名のとおり、秦の始皇帝を先祖に持つという秦一族で、近江(おうみ)の朴市一帯を勢力下に置いていた。

 ―― 現在の滋賀県愛知川町・秦荘町・東近江市一帯である。

 この辺りは、古くから渡来人との関係があったようで、その中でも半島の人間が多く入植していたようだ。

 東近江市にある紅葉で有名な百済寺は、それを如実に示すものであろう。

 ただし、百済寺の縁起では聖徳太子の建立となっている。

 因みに、秦氏は秦の始皇帝を祖としているが、新羅の前身である辰(秦)韓人が祖先ではないかという説もあるので、半島出身者が多かったと言っても、なんら不思議ではない。

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