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【歴史小説】『法隆寺燃ゆ』 第二章「槻の木の下で」 前編 6

 その夜、彼は大量の木簡の海の中にいた。

 踠いても、踠いても、前に進まない。

 逆に、どんどん木簡の海の中に引きずり込まれていく。

 遠くの岸に、忙しく働く魚主たちの姿が見えた。

 鎌子は大声で助けを求めた。

 しかし、それは声にならない。

 傍を、一艘の船が通り過ぎて行く。

 その船には、父の姿がある。母の姿がある。異母兄の姿が、そして、弟たちの姿がある。しかし、誰も溺れている人に気付かない。

 彼は、だんだん意識が遠退いていった。

 もう駄目なんだ。

 彼は、木簡の海に呑まれていく。

 その時、彼の名前を呼ぶ声がした。

 誰、誰が呼んでるの?

 その声は、穏やかで優しい。

 誰なの?

 彼は、最後の力を振り絞り、海面に顔を上げた。

 彼の前には、小船に乗った一人の男がいた。

 僧侶のようだ。

 でも、顔が見えない。しかし、鎌子には、それが誰か分かっていた。

 ―― 旻だ。

 僧侶は、こちらに手を差し伸べた。

 彼は、その手にしがみ付こうとした。

 そして、再び意識が遠退いていった。

 目覚めた彼は、派手な夜具の中にいた。

 傍らには、見知らぬ女が寝息を立てている。

 そこは、酒屋の奥の部屋であった。どうやらあの後、大量の木簡を見た興奮が抑えきれず、しこたま飲んだようだ。おまけに、この女と何事かあったらしい。

 彼は、頭を振って夜具を出た。

 そして、帰り支度をし始めた。

「お兄さん、こんな朝早くに帰るの?」

 女は、鎌子の気配に目を覚ましたらしい。

「行かないと……」

「行くって、どこへ?」

 女は、乱れた髪を掻き上げながら訊いた。

「行かないと、旻の下へ」

「旻?」

 女は訊き返した。

 しかし、彼女の声など鎌子の耳には届いていなかった。

 彼は、まだ明け切らぬ大地に飛び出して行った。

 呟きながら。

「旻の下へ……、旻の下へ……」

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