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【歴史小説】『法隆寺燃ゆ』 第二章「槻の木の下で」 前編 7

 隋の歴史書に、倭国から初めて使者が来たのは、開皇20年、即ち西暦600年のことであったと記載されている(『隋書倭国伝』)。

 しかし、倭国の歴史書に、これに関する記載はない。

『日本書紀』には、遣隋使の初めは、推古天皇の治世15年、西暦607年のこととある。

 この時の使者が、小野妹子(おののいもこ)である ―― この遣隋使は、中国側にも記録が残っている。

 彼は、翌年の4月に、隋の使者、斐世清(はいせいせい)とともに帰国。

 その年の9月には、斐世清を送り返すための使者として再び西海を渡った。

 この時、ともに隋に赴いた学生と学問僧がいた。

 学生は、倭漢直福因(やまとのあやのあたい・ふくいん)・奈羅訳語恵明(ならのおさ・えみょう)・高向漢人玄理(たかむくのあやひと・げんり)・新漢人大国(いまきのあやひと・おほくに)の四人。

 学問僧は、南淵漢人請安(みなみぶちのあやひと・しょうあん)・志賀漢人慧隠(しがのあやひと・えおん)・新漢人広済(いまきのあやひと・こうさい)、そして、新漢人日文(いまきのあやひと・にちもん)こと僧旻の4人である。

 彼は、推古天皇の治世16(608)年に隋に渡ると、その後24年間、かの地に留まった。

 帰国したのは、天皇が代わって、舒明天皇の治世4年(632)年のことであった。

 この間、彼は大陸の最先端の学問を吸収するだけでなく、隋という大国の滅亡と、唐という新国家の樹立を目の当たりにしていた。

 その時の経験が重用されたかどうかは分からないが、彼は大化改新政府の国博士という地位に付いている。

 唐から帰国後、旻は御堂に群臣の子弟を集め、大陸の学問の講義をしていた。

『日本書紀』にはその記録はないが、『藤氏家伝』には、「嘗(むかし)、群公(まえつきみたち)の子、咸(みな)、旻法師之堂に集いて、周易を読みき」とあり、中臣鎌子もここに通っていたが見える。因みに、『周易』とは易学の一つである。

 旻の堂は飛鳥の地にあり、そこに多くの豪族の子弟が集まり、彼の講義を受けていた。

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