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【歴史小説】『法隆寺燃ゆ』 第五章「法隆寺燃ゆ」 前編 12

 これより先の4月、対馬の沖に唐の船団が出現した。

知らせを聞いた飛鳥の群臣は、すわ戦かと慌てふためき、西国各国に沿岸防備を固める趣旨の命令を出すとともに、采女通信(うねめのみちのぶ)と僧侶智辧(ちべん)らを対馬に送って、その対応に当たらせた。

彼らは、百済鎮将劉仁願(りゅうじんがん)の使者 ―― 朝散大夫郭務悰(ちょうさんたいふかくむそう)を代表とする一団で、表函と献物を進上するための来朝だった。

さて、この使者に関しては謎が多い。

唐・新羅軍に大敗した後の使者である。

状況から言っても、倭国に対する宣戦布告の使者か、あるいは賠償請求等の戦後処理の使者と思いがちである。

だが、当時の東アジア情勢を見ても、唐が最も恐れるのは高句麗であり、高句麗を制圧しないことには、半島だけでなく大陸での地位を失い兼ねないので、今回の使者の目的は、あくまで白村江の戦いで拗れた関係を修復することにあったのではないだろうか?

大帝国唐が小国高句麗相手に四苦八苦するはずがないと考える者もいようが、隋・唐は高句麗に何度となく侵入し、その度に敗れていた。

隋が滅びた要因の一つも、この高句麗との戦に敗れたことにあった。

高句麗はそれ程強かったのであり、この国を制するためには国を挙げて対処する必要があった。

実際、半島南部を手中に収めた唐は、半島北部制圧のため、高句麗とにらみ合いを続けていた。

この時点で、高句麗と倭国が手を組めば、唐は迂闊に動けないことになる。

そうならないためにも、白村江の戦いで冷え切った関係を修復し、後方の安全を確保するという保険が欲しかったのではないだろうか?

あるいは表函には、高句麗征伐時の支援、または第三国として中立を保つよう書かれていたかもしれない。

 兎も角、唐の表函を受け取った倭国の使者は、5月17日に大王に進上した。

『日本書紀』には、5月17日に唐の使者が来朝したように書かれているが、『海外国記(かいがいこくき)』(『善隣国宝記(ぜんりんこくほうき)』上所引)には、4月に対馬に到着し、中央から使者を送ったと書かれている。

『善隣国宝記』は15世紀の書物であり、対等外交を主張した書物なので、全てを信じる訳にはいかないが、敵国の使者が突如来朝することはありえないので、『海外国記』にあるように、対馬に到着した唐の使者を当地で応対したという方が案外正しいのかもしれない。

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