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【歴史小説】『法隆寺燃ゆ』 第二章「槻の木の下で」 前編 1

 摂津・和泉地方は、大和より一足早く春を満喫していた。

 それは、智仙娘(ちせんのいらつめ)の屋敷でも同じであった。

 屋敷には幾本の梅の花が綻び、屋敷全体に甘美な香りを漂わせている。

 彼女は、一年を通してこの季節が最も好きで、特に戸を開け放ち、春の柔らかい日差しに照らされながら、梅の匂いの中にまどろむのが彼女の至福の時であった。

 今日も、朝から日差しが穏やかである。

 彼女は、いつものように屋敷中の戸を開け放ち、梅の花を愛でながら酒など嗜んでいたが、暖かさと甘ったるい匂い、そして酒の酔いも手伝って、彼女は幸せな一時へと入り込んでいった。

 夢の中の彼女は、男の腕の中にいた。

 夫 ―― 中臣御食子(なかとみのみけこ)の腕である。

 周りは一面の梅である。

「いつ、飛鳥からお戻りになられたのですか?」

 それは声ではない。彼女の心の声であった。

「いまだよ。お前が、梅の香りにまどろんでいる時に」

 御食子の声も聞こえない。それは、彼女の頭に直接響いてきた。

「お前に早く会いたくて、馬を飛ばして来たのだよ」

「嬉しい」

 彼女は、愛する人を強く抱きしめる。

 彼も、愛する女を強く抱き返す。

 梅の香りが鼻をつく。

 彼女にはもう意識はなく、男の思うままであった。

 二人は、その場に崩れ落ちる。そして、彼女も女の香りを湧き立たせた。

 そんな彼女の喜びを打ち破いたのは、屋敷の奥から聞こえてきた凄まじい音であった。

 彼女は目を覚ました。

 辺りを見回したが、御食子はいない。

 頭が重い。

 夢だったのね……、でも良い夢だったわ。

 彼女は、しばし夢の余韻に浸っていたが、甘美の夢を破られた根源の存在に気付き、音のした部屋へと足を運んだ。

 部屋には、侍女たちが駆けつけていた。

 その部屋には中臣氏の氏神を祭った祭壇があったのだが、目の前の祭壇は跡形もなく崩れていた。

 智仙娘は、その場にへたり込んでしまった。

「智仙様、大丈夫ですか?」

 座り込んだ彼女を侍女たちが助け起こした。

「あの子の仕業ね! 鎌子(かまこ)! 鎌子はどこですか! 鎌子!」

 彼女の声が屋敷中に響き渡った。

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