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【歴史小説】『法隆寺燃ゆ』 第四章「白村江は朱に染まる」 前編 6

 安孫子郎女は、夫が朴市に帰った理由を知らないし、別に知りたいとも思わなかった。

 突然、故郷に帰ろうと言われた時は驚いたが、彼女にとって高飛車な飛鳥の貴女たちの中で生活するよりも、腹を割って何でも話し合える友達のいる故郷の方が生活しやすかったので、むしろ嬉しかった。

 故郷に帰った田来津は、父の後について朴市内を駆けずり回った。

 父の口癖は、「領民のため」であった。

 彼は、領民のために近江沿岸を干拓し、山地を開墾した。

 山城の秦一族から良い蚕を貰い受けて養蚕にも励んだし、工人を連れて来て鋳物作りにも励んだ。

 時には領民の先頭に立って、開墾に汗を流したり、氾濫する川に土嚢を積み上げたりもした。

 田来津にとって、父は憧れでもあったし、いつかは越えたい目標でもあった。

 その目標の父も、田来津が故郷に帰って二年後に亡くなってしまった。

 その後は父の後を継いで、彼が毎日のように駆けずり回った。

 全ては、領民のためである。

 しかし、田来津には、そこに満たされぬ思いがあることにも気付いていた。

 だが、彼にはそれが何だかわからない。

 ―― 弱き者のために……、領民のために……

 父の言葉に間違いはないはずだ。

 なのに、この満たされぬ思いはなんだろうか。

 彼のそんな思いに、妻の安孫子郎女も気付いていたが、それを敢えては訊かなかった。

 もしそれを訊くと、彼が彼女の前からいなくなってしまうのではないかという思いがあったからだ。

 しかし、なぜ彼がいなくなるのかも、彼女には分からなかった。

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