【歴史小説】『法隆寺燃ゆ』 第二章「槻の木の下で」 中編 9
数日後、葛城皇子は、約束どおり鎌子に安見兒を送りつけて来た。
確かに、安見兒は美しかった。
遠智娘のような派手さはないが、仕草がなんとも可愛らしい。
鎌子は、彼女を抱いた。
もとは葛城皇子の女である。
優しく、優しく、壊れないように抱いた。
しかし、彼の扱いは徐々に乱暴になった。なぜ葛城様は、俺に安見兒をくれたのだ。遠智娘のことを知っての嫌がらせか。彼には、すでに安見兒を抱いている意識はなかった。
彼は、遠智娘を抱いていた。
激しく、そして、熱く………………
行為が終わった後、彼は床を抜け出し、一人で酒を飲んだ。
「鎌子様は、どなたか好きな方がいらっしゃるのですか?」
床にいた安見兒が不意に訊いた。
「い、いえ、なぜですか?」
「女ですから、愛されているか、そうでないかは分かります。誰か他の方を思って、私のことを抱いていらっしゃいましたね」
鎌子は焦った。
「そんな馬鹿な……」
「遠智様ですか?」
「ど、どうして……」
「ご本人は気付いていらっしゃらないでしょうけど、最後に遠智と……」
「あっ……」
鎌子は二の句が継げなかった。
「すみません、決してそんなつもりじゃ……」
「良いのです、私は……」
安見兒の声が涙ぐむ。
葛城皇子が鎌子に譲ったと言えば聞こえも良いが、女からすれば捨てられたも同然である。しかも、物みたいに渡すなんて。
鎌子は、安見兒が可哀想になった —— 安見兒の傍に腰を降ろした。
「安見兒殿、私は、あなたのことが嫌いなのではないですよ」
彼はそう言うと、床の壁に筆を走らせた。
「これが、いまの私の気持ちです」
われはもや 安見兒得たり
皆人の 得難にすとふ 安見兒得たり
(私はまあ何と、安見兒を得た。
皆が手に入れることができないと言った、
安見兒を得たのだ。)(『萬葉集』巻第二)
「鎌子様……」
壁の歌は、二人の影が重なって見えなくなった。
翌日、鎌子は蘇我倉の屋敷の前にいた。
「駄目よ、大田(おおた)、そんなに走りまわっては。待ちなさい」
鎌子の耳に懐かしい声がした。
彼は庭先を覗いた。
そこには、走り回る小さな女の子を追う遠智娘の姿があった。
そうか、遠智媛も、もう子供を………………
鎌子は、静かに立ち去った。
彼は思った。
二度とここに来ることもないだろうと。
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