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【歴史・時代小説】『縁切寺御始末書』 その三 おりつの一件始末 10

 翌日、郷役への用件から帰ってくると、おたえ、おさえ姉妹が、外戸のところにぼーっと佇んでいた。

 どうかしたのかと問えば、母を待っているという。

「母上は、どこかに行かれたのか」

「おうちに行ったの」

 と、おさえが舌足らずに言った。

「違うでしょう。母様(かかさま)は、実家に戻られたの」

 姉のおたえがおしゃまに言う。

「そうか、母上は実家に戻られたのか。それで、帰ってくるのを待っているのか」

 そのまま役場へと入ろうとした。

 ふと、いまのやり取りの不自然さに気がついた。

「おたえ坊、母上は実家に戻られたってことは、その……、もしかして、ここを出て行ったってことか」

 おたえは頷く。

「もう戻らないって、おっしゃってた」

「なぜ?」

「父様(ととさま)と喧嘩なさったの、女の人ができたんですって。だから、母様(かかさま)、出て行くって。たえとさえは、新しい母様(かかさま)に育ててもらいなさいって」

 おたえは、まるで他人事のように淡々と話す。

 すると昨夜のあれは、喧嘩をしていたのか。

 惣太郎は、慌てて役場に飛び込む。

「磯野さま、磯野さま、大変です」

 新兵衛は、文机で悠著に帳面を捲っている。

 慌てて飛び込んできた惣太郎に、彼だけでなく、宋左衛門も清次郎も驚いている。

「どうなされました、惣太郎殿」

「どうなされたも、こうなされたも……、あの……、あの……」

 口があわあわと震えるばかりで、まともに動かない。

「落ち着け、惣太郎」

 と、父に叱らた。

 ひと呼吸置いてから、

「や、やえ殿が、で、出て行かれました」

 すると、新兵衛はぱしっと額を叩いて、天井を仰いだ。

「全くやえのやつ、勘違いしおって。あれほど違うと言うたのに」

「すぐに迎えに行かれたほうがよろしいのではないですか」

「いやいや」と、新兵衛は手を振る、「大丈夫ですよ、惣太郎殿、その心配は無用です」

 女房が出て行ったというのに、随分余裕だ。

 宋左衛門や清次郎も、特段驚いた様子もない。普段から女の出奔など日常茶飯事だから、慣れっこになっているのだろうか。

 と思ったが、どうやら事情は違うらしい。

「磯野殿、これで何度目かな」

 惣太郎の父が笑いながら尋ねる。

「えっと……」、新兵衛は指を折って数える、「5回目……ですかな」

「6回目ですよ」と、清次郎が答える。

「よく他人(ひと)の女房が出て行った回数まで覚えてますな、中村殿」

「覚えてないから、何度もやえ殿に逃げられるのです。少し悔い改めたらどうですか。どうせまた、女がらみでしょう」

 惣太郎は、例の女を思い出した。

 するとあれは、矢張り新兵衛の妾か何かであったか。それを奥方に知られ、怒って出て行ったということか。

「だから違うんですって、誤解なんですよ、それが」

 と、新兵衛は否定していたが、惣太郎は間違いないと確信した。

 縁切寺の役人が女房に逃げられるとは、落語になっても笑えない。

「まあ、どうせ数日すれば、けろっとして戻ってきますよ。惣太郎さん、そうお気になさらずに」

 そうは言っても、気にせずにはきられなかった。

 現に、母親がいなくなったふたりの娘が不憫だ。

 しかし、何度も家出を繰り返す母を持って慣れているのか、このふたり、妙に健気だ。

 特に、寂しいとか、母に会いたいとか泣き喚くことなく、母が帰ってくるのを待っている。

 惣太郎の母や清次郎の妻も、それが当たり前のように子どもたちの世話をする。

 夕餉も、惣太郎の部屋に来て、並んで一緒に食べた。

 母は、

「おさえちゃん、お口の端にごはん粒がついているわよ。おたえちゃん、もう一杯いかが」

 と、自分の息子を差し置いて、ふたりに付きっ切りだ。

「矢張り小さい子はいいわね。うちのは、もう可愛くないくらい大きくなって」

「可愛くなくて、すみませんでしたね」

 惣太郎がぶっきら棒に答えると、たえとさえがくすくすと笑う。

「しかしやえ殿も、子どもを置いていかなくてもいいのに、可哀想に。どうせなら、連れていけばいけばよろしいのに」

「そうは思っても、そうできないことがあるのですよ、女は……」

 母は、幼子のぷっくりと膨らんだ頬を嬉しそうに見つめながら言った。

「そういうものですか」

「そういうものです。それにしても、やっぱり子どもはいいわね。あたしは、もう子どもは駄目だから、誰かさんが早くお嫁さんをもらって、孫を生んでくれるといいんだけど」

 最終的に話はそこになり、おたえ坊とおさえ坊のどっちが惣太郎の嫁になるかで言い合って、立木夫婦を大いに笑わせ、惣太郎はひとり憮然と飯を食べ続けた。

 その後、惣太郎は姉妹の遊びにつき合わされ、やれおままごとの相手をしろ、やれお馬さんになれと、お役目より疲れた。

 ようやく幼子たちは自分の部屋へと戻っていった。

 やれやれ、これでこちらも休めると思った矢先、新兵衛の部屋から子どもたちの泣き声が聞えてきた。どうやら、母に会いたい、母のもとへ行く、母と一緒に寝たいと泣いているようだ。

 新兵衛が宥めているようだが、なかなか泣き止まない。

「こういうとき、男親って駄目なのよね」

 と、母はなぜかうきうきとした足取りで隣の部屋へと向かった。

 それからほんの半時後、新兵衛が夜具を抱えてこちらにやってきた。

「波江さまが、子どもたちと一緒に寝てくれるとおっしゃられるもので、私はこちらに御厄介になろうかと……」

 宋左衛門、惣太郎、新兵衛という、なんともむさくるしい〝川の字〟になってしまった。

 そのせいか、またまた奇妙な夢を見た。長い、長い一本道 ―― 女が駆けている。泣いている。落ちる涙が、道に点々と跡を残す。

 駆け込み女に違いない。

 良く見ると、新兵衛の妻おやえだ。

 道の脇には、一本の桜が立っている。その下で、男と女が逢引している。男は新兵衛で、女はあの女だ。

 やえ殿が可哀想だと思っていると、それは母である。

 逢引男は父である。

 女はおみねである。

 酷い夢であった。

 おりつの亭主甚左衛門がやってきたのは、大雪が降った日から4日後のことであった。

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